2012年11月27日火曜日

●洛外沸騰記事探索中脱線 野口裕

洛外沸騰記事探索中脱線

野口 裕



先週末に京都であった、現代俳句協会青年部シンポジウム「洛外沸騰 今、伝えたい俳句残したい俳句」。すでに半年前から予定が入り、当日は放送機器と格闘中だった。行けなかった当方は指をくわえているだけだが、知り合いが多数関わっているだけに少々残念ではある。

心残りがあるせいか、どんな様子だったかを誰か書いていないかと、さきほどあちこち見て回った。まとまった報告としては、

曾呂利亭雑記
http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html
週刊「川柳時評」
http://daenizumi.blogspot.jp/2012/11/23.html
『日々録』ブログ版
http://blogs.yahoo.co.jp/hisazi819/archive/2012/11/18

などが目についた。その中で、週刊「川柳時評」氏の、
パネルディスカッションの前半は結社と主宰の話であった。
俳人はなぜこんなに結社や主宰の話が好きなのだろう。
「新撰21」の竟宴の際に、アンソロジーに出す百句を主宰に事前に見てもらったかどうかがとても重大なこととして話題になったときにも私は違和感を持った。
という記述から、若かりし頃「徒弟」という言葉を意識しつつ実験物理を選んだことを回想してしまった。

その頃師事していた教授を師匠と呼ぶようなことはなかったが、将棋の世界の内弟子制度にふれた中平邦彦著「棋士その世界」(講談社)や、初の外国人力士として相撲社会の徒弟制度に触れた雑誌「NUMBER」(文藝春秋社)の高見山のインタビュー記事などを、興味深く読んだことを思い出す。

しかし、理想的な結社とか主宰を語る人々は見果てぬ夢を見ているのではないか。現代という情報の溢れている時代と、徒弟制度とのずれは埋めきれないのではないか、というのが結果として途中で「徒弟」であることを辞めた人間の見るところだが、そうした感想と今週号の週刊俳句に掲載されている江里昭彦氏の記事「角川書店「俳句」の研究のための予備作業 〔中〕」で紹介されている上田五千石の文章、
だが、雨後の筍のように無定見に主宰誌ができ、結社がつくられていく現状はいかんともしがたいであろう。結社とは、それが在るべき論理と倫理に支えられて必然的に、公に許されて生まれてくるもの、という理念の欠如は、総合誌の指導性をもっても埋められるものではないだろう。

また現に在る結社にしても、伝統あるものは多く代替わりをして、その創成期のエネルギーを喪失し、その他も俳句観不分明にして存続経営しているのみという慣性を帯びて、活性力を減じているのが多く、しかも結社間交流というより個人的交際の揚が広がった今日、結社の特殊、ことにその厳粛性は著しく褪色している。これを「結社の時代」として鼓舞するのはなかなか困難である。
は、奇妙に当方の感想とシンクロしている。


【追記】
書き上げてから見てみると、「曾呂利亭雑記」に、関連する新しい記事が上がっていた。
http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/2012/11/blog-post_25.html

入れ違いだったようだ。

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