季語としての「熊」 02
橋本 直
≫承前 01
引き続き、季語の「熊」そのもの、「熊」の猟、「熊」の祭りの三系統について追いかけてみたいと思います。まずは文献的に追いかけやすいところで、猟から。
そもそも、初冬に栄養を蓄え穴で寝ている熊を狙うことは、相手が猛獣であることへの対処や、毛皮や熊の胆を主目的にする猟として非常に合理的と考えられます。その意味で熊猟は冬季にふさわしい季語と言えるでしょう。
子規の『分類俳句全集』第9巻冬の部「時雨」の項の、下位分類「猪、熊、猿、狐、鹿」中に、
穴熊の出てはひつこむしくれ哉 為有
があります。作者は山城嵯峨の人。『続猿蓑』元禄11(1698)年刊の冬の部所収。子規はこれを「熊」として分類していますが、幸田露伴は『評釈芭蕉七部集』(岩波)で冬籠もりの熊ではなく、いわゆるアナグマ(貛)だとしています。要するに、知識でつくった句と思われ、本当のところはよくわからない。したがって、同じく『分類俳句全集』第10巻冬の部「動物」の項にある「穴熊」三句、
はち巻や穴熊打ちの九寸五分 史邦
穴熊の寝首かいても手柄哉 山店
丹波路や穴熊打ちも悪衛門 嵐竹
も、熊猟の「穴にこもった熊」のことではなく、アナグマの可能性があります。この三句はいずれも史邦編『芭蕉庵小文庫』元禄9(1696)年刊。みな蕉門の俳人達です。
子規のあの膨大な分類作業のなかで筆者が四句しか見つけてないだけかもしれませんが、少なくとも冬季の「熊」ではこの三句のみ分類されています。つまり、子規が近世の俳諧の発句から見つけ出していた冬の季語としての「熊」は、「穴熊」のみであり、しかも元禄年間に出たもののみであると、とりあえずみておきます。そして、その何れもが狩猟の様子を詠んでいることも共通します。そういえば、前回引用した柏浦の『明治一万句』の二句も「熊突」を詠んだものでした。
「熊突」については角川『図説大歳時記』「考証」に「穴熊打」が近世の季寄せ「『忘貝』(弘化四)に十一月として所出」とあります。『忘貝』とは淡水亭伸也編の『合類俳諧忘貝』のこと。弘化(1847)年といえばもう江戸末期です。他に『北越雪譜』の記事の長い引用もあるのですが、しかし例句はすべて明治以降のものです。
熊突や爪かけられし古布子 松根東洋城(渋柿)
熊突の夫婦帰らず夜の雪 名倉梧月(明治新題句集)
熊突の石狩川を渡りけり 深見桜山(青嵐)
一句目は「古布子」も冬の季語です。作者が目の前で熊に爪を引っかけられた猟師をみていた可能性より、狩猟後に熊のひっかき傷のある綿入れを目にして詠んだとみるほうが妥当とすれば、これを熊突きの句とみて良いかは疑いがのこります。また、二句目は柏浦の『明治一万句』の二句目と同句で、三句目も『明治一万句』の一句目となんだか似たような句で、また北海道が舞台です。
ところで、『図説大歳時記』の熊突き解説ページには『日本山海名産図絵』からとった「熊捕り」「熊穴捕り」「熊撃つ斧」という三つの挿絵があります。この書物のことはまだよくしらべていませんが、この挿絵によって「熊」猟の説得力が増すことは確かです。しかし、九州大学デジタルアーカイブ所蔵の資料によると、『日本山海名産図絵』は平瀬徹斉著、長谷川光信挿画で、宝暦4(1754)年刊行ですがこれらの挿絵の画像は無く、同アーカイブに併載されている、平瀬補世著、蔀関月挿画の『山海名産図会』寛政11(1799)年刊行の第二巻にでています。
≫http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meisan/m2/catalog.html
現物を確認しないことにはどっちが正しいのかわかりませんが、ひとまず「熊突」には熊猟とアナグマ猟の両方ありうることは、改造社『俳諧歳時記』に出てきます。またまたところが、なのですが、この歳時記にもその挿絵の一枚「熊撃つ斧」が入れてあるのに、例句は近代の、しかも北海道の風景なのです。
熊突や毒矢持ち立ち老アイヌ 靑眼子(ホトトギス)
はたしてこれは、実景の写実だったのでしょうか?
ここまでを整理します。「熊突」は「穴熊打ち」として近世からわずかながら句に詠まれているが、子規が分類していた「熊」は「熊」ではなく「アナグマ」である可能性もある。近代の歳時記には「熊突」が立項されているが、挿絵は江戸のものであるものの、句は近代以降の例句しかない。①で引いた子規の句と、これまで引いた近代の歳時記の例句七句中の四句は、あきらかに北海道の句であり、うち二句はアイヌを詠んでいる。
そこで次回は、季語「熊祭」やアイヌと熊について考察してゆきたいと思います。
(つづく)
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