2013年3月6日水曜日
●水曜日の一句〔飯野きよ子〕関悦史
水曜日の一句
関悦史
枯野原どの蓋とれば赤飯か 飯野きよ子
集中、やや異形の句。
「枯野原」で一度切れ、さまざまな蓋付きの器は目の前の食膳に並び、そのどれかが赤飯と解するのが常識的判断というものかもしれないし、実際、何ごとかの慶事があり、枯野の見える座敷で会食中と取ることも不可能ではないのだが、それではこの句の持つ、少々奇怪な目出度さが殺がれてしまう。
ここは、読み下した刹那に直観的に立ち上がる、至るところ蓋がばらまかれ、しかもいずれかの下には必ず赤飯が入っていて、心弾ませつつ枯野原を探索しているという状況と取りたい。
この蓋の下には赤飯以外にもさまざまな料理が収められているのか、それとも赤飯以外はカラだったり、食べられぬ物が入っていたりするのかで印象が変わるが、これも当然さまざまな料理があると取るべきだろう。
赤飯とは飢えに苛まれながら荒野をさすらう時、真っ先にそれのみを欲するという食料ではないし、だいいち飢えなどという要素の介入を許したら、ハレの食物としての存在意義が句中において無くなってしまう。
そもそもこの「枯野原」は不毛な荒野ではない。
「どの蓋とれば」の量的過剰といい、「赤飯」の祝祭性といい、この「枯野原」が潜在的な生命力の遍満として捉えられていることは明らかなのだ。
祝宴ではなく、一人で赤飯探しに興じているようにも見えるが、それでも不吉さの印象は不思議に薄い。
理詰めで考えれば、「枯野原」が死で、「赤飯」が再誕とも取れてしまうのだが、そうした符号じみた寓意性を匂わせつつも、句に横溢するのは、あくまで健やかな食欲に裏打ちされた宝探しの楽しみだからである。
結果として、この句は寓意とも夢とも日常とも重なりつつ、そのどれともつかない奇異で懐かしい次元を見せてくれることになった。
飯野きよ子『花幹』(2013.2 角川書店)所収。
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