2013年7月10日水曜日

●水曜日の一句〔須藤徹〕関悦史



関悦史








叫ぶ教皇重低音の蝿生る   須藤 徹

〈フランシス・ベーコン展五句〉の前書きのある最初の句。フランシス・ベーコン展は、東京では竹橋の東京国立近代美術館で三月八日から五月二六日まで開かれていた。

この句が載った「ぶるうまりん」二六号は「美術と俳句のアマルガム」という、美術作品をモチーフに俳句を詠む実験的な特集が組まれていて、須藤氏はこの特集にこそ参加していないものの、ベーコン展についての短文も書いており、それに合わせた感がある。

(ベラスケス、エイゼンシュタイン、口腔内の医療用写真といった引用元に触れた後で)
……ベーコンの「叫ぶ教皇」は、しかしタイトルの「叫ぶ教皇」にのみ収斂される。線・形・色彩・構図などの絵画を構成する全ての要素は、完璧であり、文句のつけようがない。その完璧さによって、世界は一瞬にして歪められ、脱臼され、還元される。キリスト教の秩序崩壊という些細なレベルではなく、言葉を持たず、叫ぶだけの人間の原始的身体性そのものの姿に回帰しようとする「教皇」、そこには一切の物語(意味)も終焉していよう。》(「瀧の沢山荘にて⑫ 叫ぶ教皇とフランシス・ベーコン―世界は一瞬にして脱臼し、意味を失う」)

ベーコン自身、自分の絵が物語や意味の図解に堕してしまうことを警戒していたらしいが、須藤徹の句もその強度に打たれ、意味性、象徴性を帯びないようにと、強度だけを「重低音の蝿」の発生というあり得ない暗喩で表そうとしている。

絵に限らず他の芸術作品をモチーフにした句が難しいのは、その感銘を表すべく苦心した表現の到達する限界が、当の作品という物件の彼方へは突き抜けない点で、この句の場合は、直接言及した「叫ぶ教皇」という部分が早々とその限界に屈したかに見えながら、「重低音の蝿生る」という非在の領域の発する禍々しい音への暗喩化によって、あの画面で起こっている得体の知れない事態を何とか言語化=意識化しようと努め、重低音の持続=時間の要素を引き出すことで一定の成功をおさめながらも、しかし結局はその全てがあの画面に魅入られ、吸収されてしまうという敗北の形をとったベーコンへの讃となっている。

正面から挑んでベーコンに呪縛されてしまったこの句よりも、核融合との取り合わせによって、日本の現状や不吉極まる不可知の領域とクロスさせた五句目《ベーコンの脚燃料棒と交叉せり》を佳とすべきだろうか。

ちなみにこの両句の間に挟まった三句は《教皇の脳天に散る陽炎よ》《歯が闇を闇が歯を攻め教皇は》《教皇の線の脱臼蠅生る》で、いずれも一句目と同じ画面自体を写生する試み。最後の「燃料棒」の句のみがベーコン作品への屈服による閉塞感を逃れている点、示唆に富む。


周知のとおり、須藤徹さんは去る六月二九日に食道がんのため、六六歳の若さで亡くなられた(先月出た「ぶるうまりん」二六号を見ても病気の気配など微塵もないのだが。意志的に伏せておかれたらしい)。

私事を記せば、一人で俳句を作っていた私が初めて人なかに出たのが現代俳句協会青年部の勉強会であり、当時、須藤さんがその部長だった。

快活で温和な印象で、いきなり訪れ、見知った人が皆無の初心者としても、その後の飲み会も含め、居心地の悪さを感じることはなかった。

私が東日本大震災に遭った折には、呼びかけに応じ、匿名で義捐金を出してくださった。

匿名だったのに何で私が知っているかというと、被災後、家の修理にと用意した現金を賊に押し入られて盗まれるという事件があり、ブログに書いたら、それを見た須藤さんが驚いて再度別にお見舞金を送ってくれたからである。

お世話になりました。ご冥福をお祈り申し上げます。


「ぶるうまりん」二六号(2013.6)掲載。

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