関悦史
蟬茸のあはれ紅さすひとところ 大石悦子
俳句に画像や映像を付けるのは難しい。
言葉、ことに聴覚映像の組織体としての俳句を、じっさいの映像がしばしば狭めつつ圧倒し、破壊してしまうからである。
そんなことを思ったのも、セミタケという筆者個人にはあまり身近でないモチーフの姿を確認するために画像検索をかけてしまったからなのだが、個体差があるとはいえ、どこか一ヶ所が紅いというよりは一様に紅らんでいるものが少なくないようだ。ものによっては、地上に出た部分や節くれだった部分で色合いが濃くなっていたりもする。いずれにしてもセミの幼虫を取り殺してそこから伸びだす菌類の姿は、まことにグロテスクである。
そしてそのグロテスクで強烈な画像は、この句の隣に置くには、ことにふさわしくない。短歌的な「あはれ」の詠嘆が掻き消されてしまうからだ。
同じ句集に《亀鳴くや詠ふとは虚に遊ぶこと》《天牛をすこし苛めて放ちけり》という句も入っているのだが、この作者にとっての虚とは、あからさまなで粗大な虚構や観念ではなく、実際の画像・映像を封じつつ、事物を言葉で「すこし苛めて」は「放つ」遊びの中にひらめくものなのだろう。その心弾みは実際のセミタケの紅さから来るのではない。カミキリムシを苛めるとき、カミキリムシと人とが有機的にぬきさししあう或る機械のようなものを形成するように、言葉と作者との有機的にかかわりあう中から発生するものなのだ。
句集『有情』(2013.12 角川書店)所収。
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