関悦史
いつか爆ぜる石蹴りの石大西日 塩野谷 仁
石蹴り遊びは一人でも複数でもできるようだが、この句の場合は一人と見たほうがよさそうである。
蹴られる石のみに向きあい、感情移入するには他人の存在は少々邪魔だからだ。
自分の進む方向へ、遊びならではの無償の執着をもってひたすら石を見つめ、蹴り続けていく。その行為のうちに、いつかその特定の石との間に縁とも呼ぶべき内面的な関係が発生する。
だが爆発の予感は、必ずしも蹴る者の内面をそのまま反映したゆえのものではない。鬱憤に近い何かがないとも言いきれないが、「いつか」と時間的に距離を置かれ、「爆ぜよ」でも「爆ぜさせる」でもない「爆ぜる」という石自身を主格にした平叙文からも、観察者的な疎隔感がうかがえる。
そして「大西日」が、容易に蹴られてしまう程度の小石に、大自然の潜勢力をしみとおらせている。暑さ、そして自分の蹴る行為自体に煽り立てられる苛立たしさに似た感覚、さらに一日の終わりの没落感を帯びた中での小石への加虐。それらが蹴る者と石との結ぼれを形成しつつ、次第に石のポテンシャルを高めていく。
ただの何の気なしの遊びであったはずだ、石蹴りは。しかしその行為の蓄積は、やがて人生のいずれかの時点で、わが身に及ぶ危険に転ずるかもしれないものへと変化しつつある。そうした奇妙で予想外な因果律を予感させつつ、大西日がさしあたりは両者を包み、鎮める。
句集『私雨』(2014.5 角川学芸出版)所収。
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