2014年6月25日水曜日

●水曜日の一句〔竹村翠苑〕関悦史



関悦史








電子レンジ十秒蝗しづもりぬ   竹村翠苑

イナゴを料理しているらしいが、豪快というか何というか、呆気にとられる直接的な句。ただし狙って粗暴にしたようなところはない。無駄のない無造作で即物的なリアリズムが、恐怖や残酷を軽く漂わせた滑稽味へと通じているのである。

イナゴの調理法というものに不案内なのだが、句を見る限り、生きているのを直にレンジにかけたとしか思えない。加熱によってしずまっているのだ。

作者は農家の高齢の女性らしく、句集には、力のぶつかり合う場面を物に即して描いた佳句が多い。

  生ぐさき堆肥すきこむ辛夷かな

  キヤタピラにくひ込む泥や稲を扱く

  団栗の轢き砕かれぬ車道の上

  糸瓜水一升壜に満ちにけり

  間引菜を洗ふや笊に起き上がる

  鏡餅鏡餅もて割りにけり

さてイナゴの句だが、これは素材レベルで面白いというだけではなく、句を読み、胸に沈めてみて、詩性や俳味があるかと問うてみたとき、確かに何かがある気がする。

料理の素材となれば鍋で煮られようと、フランパンで炒られようとさしたる情感もわかないはずだが、その辺の田畑に飛び跳ねていた昆虫と電子レンジの唐突な出会いは、日常にひそむシュルレアルに触れたような衝撃力があり、火の気もない電子の加熱で死ぬイナゴは哀れでもあるが、哺乳動物などと違って人と情意を通わせるのは不可能に近い生き物でもあり、どちらかといえばむしろ電子レンジをはじめとする機械に近い存在とも感じられてくる。電子レンジの方も、こういう形で生命に引き寄せられたことは俳句の中でも滅多にあるまい。デヴィッド・クローネンバーグ監督の『裸のランチ』ではゴキブリとタイプライターが合体していたが、ああいう物理的な地平での一体化ではなく、精霊的ともいえるレベルで、双方が同時に微妙に異化=同化されているといえようか。

「十秒」の短さ、一見無駄な正確さが、酷薄で不気味な可笑しさを際立たせている。

現代のヒトの暮らしというものが、かなり可笑しいのではないかとも思えてくる。一体ヒトは何をやっているのか。


句集『摘果』(2014.6 ふらんす堂)所収。


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