関悦史
同じ木のふたつとあらぬ茂かな 望月 周
木の茂り全体を漠然と見ている目がやがて木の一本一本に移り、さらにはそれぞれの枝ぶりを追うようになる。そのときあらわれてくるのが「同じ木のふたつとあらぬ」という認識と感嘆なのだ。
皆違うということ自体は当たり前の一般論に過ぎない。その一般論が俳句になるために目が要した時間と動き、それが句の背後にあるのである。
そこから浮き上がってきた同じパターンに束ねることのできない無限の複雑さは、「自然の偉大さ」や「みんな違ってみんないい」といったメッセージに容易に接近してしまいもするのだが、一句はそうした出来あいのメッセージをすり抜けつつ、目の前の枝葉が織りなすパターンの無限性のみを、見慣れた風景から引き出していく。
現前する無限は畏怖や崇高の感覚を呼び起こす。呼び起こしはするが、意識されることがなければ、それは何の変哲もない茂りに過ぎない。目の前にある当たり前のものが不意にその意味と潜勢力を変えていく驚異に触れつつ、それを「かな」で無害な感慨へと収め込み、切り離す。平易な言葉のなかに、そうした認識と感情の運動がひそんでいる句。
句集『白月』(2014.9 文學の森)所収。
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関さんがおっしゃるような深みを、私はこの句からは感じ取れません。「当たり前の一般論」そのままですよね。望月氏が実際にはもっとずっと深い所まで認識していたのだとすれば、もっと違う表現があるように思いますが。
返信削除他の投稿にも感じるのですが、失礼ながらどうも関さんは深読みしすぎるというか、大げさすぎるというか……。
大江さんのおっしゃっていること、よくわかりますし、はんぶんは同意いたします。
返信削除ただ、「あたりまえのこと」なのに、「ふだんはそんなふうに意識していなかった」「そんなふうに見てはいなかった」といった事象を、句にしてもらうことで、思い起こす、思い出すということがあります。そこに感興を見出すかどうかは、ひとそれぞの好みや俳句へのスタンスによって違うと思います。
「茂り」という季語は、俳句においては漠然と気分で捉えられがちです。絵で喩えれば、グリーン系の色合いでざっくりと(あるいは、ふわっと)描いた感じ。この句は、茂りのひとつひとつに視線が注がれている(絵でいえば、ひとつひとつの形と色を入念に捉えて描こうとする筆致)。そこが美点のように考えます。
さらに私の好みでいえば、「正しい」句なので、深く愛するところまでは行きません。でも、「正しい句」の価値というものが確かにあると思います。
「正しい俳句」ですか。それはそうかもしれませんね。でもあまりおもしろくはないです。
返信削除しかし本家本元の関さんからは10日ほど経つのにスルーされたままなのはかなしいですなあ。
書き手は、そこに書いたことがすべて。
返信削除…とも、私は考えます。
レスポンスは、あってもなくても、どちらでもよろしいのでは?
もちろん、どっちでもいいです。それはその人の自由です。強要したり非難するつもりはまったくありません。しかし反応があればいいのになという思いは個人的にはあります。
返信削除それは他の人のコメントを見ていてもそうで、ここでまた応酬があればもっとおもしろいんだけどなあ、と感じることはしばしばあります。とくに異論や疑問が出されたときは。