関悦史
踏まずとも消ゆることなし枯野道 林 亮
夏野のなかの道であればすぐ草に覆われる。踏まれなくても道が消えないのは枯野ならではだ。
句はそのことに満足しているわけでもなければ、安心しているわけでもなく、また心配しているわけでもない。認識しているだけである。
生い茂った植物の痕跡と、来春以降再び繁りだす潜勢力をはらみながら停止している枯野の停滞感。この停滞感には電車が事故で停車しているような、本来動くべきものが止まっているときの、どこか耐え難いもどかしさがひそむ。認識しているだけというスタンスは、その停滞感に見合っている。
道がついているからには、そこを通る用のある人間が一定数いるはずだ。それを消さずにおくのは自然の慈悲でもなんでもない。残るときは残り、消えるときは消える。今はたまたま努力して残す必要がない時期にあたっているだけだ。
人の側もことさら努力しているとは感じていない。獣道とはそういうものである。人の営みと自然とが、特別意識することもなく押し合いを繰り返した結果、現在のバランスとして枯野道が残っている。特に意味や感情が生じるほどのものでもない。ただそういうもの、そういう状態がある。それに気づいてしまった者も、ことさら影響を受けることもなく、普通に暮らしていくしかない。ただそういうものに気づいてしまったという経験が、一時残る。その経験もやがて夏野のなかの道と同じように消える。句が捉えたのは、そういう局面なのである。そういう局面を捉えて残してしまった俳句というものがナンセンスなような気もし、めでたいような気もする。
句集『高知』(2014.12 私家版)所収。
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