2014年12月3日水曜日
●水曜日の一句〔深代響〕関悦史
関悦史
空の奥に
昼顔は去り
漂流市民 深代 響
多行形式に限らず、前衛風の様式の句では、負性を帯びた言葉が使われることが少なくない。それが孤立意識と結びついて自己陶酔に近いセンチメンタルな句となったり、降霊術じみた句になったりする場合もある。
この句にも「去り」「漂流」と負性を帯びた語がないわけではないのだが、一句全体としては言葉同士のモビールのような軽やかさのうちに力と緊張が組織化されている。
まず注意すべきは「空の奥」という言葉だ。「空の果て」ではない。仮に「果て」とした場合、「昼顔」と地に残されたものとの間には断絶しかなく、地に残されたものは救いがたく鈍重な重力にとらわれることになる。ところがそこに「奥」という求心性を持った言葉が置かれると、空の彼方と地に残されたものとの間にピンと一本の張力がはりつめ、その張力がゆきわたった広大な空間が一句の中心を占めることになるのだ。
地に咲いていたはずの「昼顔」は「空の奥に」去った。おそらくは静かに。
ジョージア・オキーフの絵にクローズアップされすぎた結果、それ自ら宇宙のようになってしまった花がしばしばあらわれるが、この句にもそうした、凝視が非実体の領域まで柔らかくつきぬけるようなコスモロジーが感じられる。
そうした諸力の配置がはじめの二行で提示され、一行の空白による場面転換あるいは放心のようなものを挟んで、地に残されたのが何ものなのかが明らかとなる。「漂流市民」である。「空の奥に」「去り」という言葉による位置関係の呈示から、「漂流市民」は少なくとも一度は地に残されたものと思われる。
「昼顔」のうすさ、あやしさを通じて「空の奥」とのコスモロジーに触れてしまったものは、地にありながらか、あるいは「昼顔」を空の奥へと追いながらか、いずれにしても漂流するしかない。だが彼/彼女は漂流しながらも「市民」という社会的・行政的な位置づけに留まることをやめないのだ。
光瀬龍の無常観に満たされた宇宙植民SFに似た気配が漂ってくるのは、ここからである。この「市民」が属する社会的・行政的組織体が、非実体的なものをも含むコスモロジーのなかに存在し、機能しているように見えてくるのだ。ここまで来ると「市」と「市民」個人との区別もやや曖昧となってくる。倫理的で独立心に富んだ個人を思わせる「市民」という語は、しかし明確な個性を感じさせることはない。「市民」(たち)が「漂流」しているとばかりではなく、「漂流市」の「民」という読み方も一句の奥に透けてみえてくるのである。
いや、ここまでの読み方と、別な読み方もありうる。
「昼顔」と「漂流市民」とは別個の存在ではなく、「空の奥」へ去った「昼顔」が「漂流市民」となったと見ることも可能なのだ。句の語り手はその一部始終を地上で見届け、報告しているとも取れるのである。
語り手は「漂流市民」自身なのか、それとも別な何ものかなのか、また「昼顔」が「漂流市民」となったとして、彼らは単数なのか複数なのかは判然とはせず、その自他の区別の曖昧な、おのおののありよう=解釈が透けながら幾重にも重なり合っている、寄る辺なくも美しいさまをこの句は示している。
透けるように薄く萎れやすい花を、一本の蔓でつながりあいながらそこここに幾つも咲かせる「昼顔」が選ばれたのは、この句においては必然的であったのだ。
句集『雨のバルコン』(2014.11 鬣の会)所収。
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