〔ためしがき〕
インフルエンザ
福田若之
インフルエンザ influenza という語がラテン語で「影響」を意味するということは、普段はほとんど忘れてしまっていることなのだけれど、一度それを思い返すと、すかさずアメリカの文学者ハロルド・ブルームの『影響の不安』のことが連想される。これはどうやら創作者が苛まれる先行者に影響されることへの不安(すなわち「影響の不安」)とその乗り越えについて語った本らしい(「らしい」というのは、パラパラめくったぐらいで、恥ずかしながら熟読したためしがないからだ)。次に、「影響の不安」という概念のこの概観が、今度は、『批評あるいは仮死の祭典』の、蓮實重彦とロラン・バルトの対談で展開されている議論を思い起こさせる。要約すれば、「影響」というのは、例えば言いまわしであるとか、要するに全くのところ言語活動の範疇におさまる出来事であって、思想的な「影響」というものはない(少なくともバルトにとっては)という趣旨の議論だ。
さて、ここで冒頭のインフルエンザに立ち返ることになる。結局のところ、言いまわしの「影響」というのは、病気としてのインフルエンザと同じように、基本的には一過性のものであって、罹っても治ってしまう類のものなのではないだろうか? すなわち、「影響」は、おそらく、それが「影響」に留まっている限りにおいて、書き手にとって決定的なものではないだろう。とはいえ、そうした「影響」は、それが言いまわしのものである以上、書かれたものに確かに刻印される。だから、マクルーハンの議論を想起してメディアを身体の拡張と捉えるなら、その拡張された身体に何かしらの痕跡、いわば後遺症が残るのだということは、事実として、忘れないでおくことにしよう。
ところで、書かれたものが誰かの身体の拡張であるとするならば、それは単に書き手の身体の拡張であるばかりではなく、読み手の身体の拡張でもあるに違いないので、このとき、メディアは、「影響」が人間から人間へ伝染する際の、まさしく媒介なのである。
上に見たような考えから、今度は「コンピュータ・ウィルス」という隠喩が、まぎれもない隠喩として思い出される。コンピュータ・ウィルスもまた、書かれたものとしてのプログラムにほかならない。コンピュータ・ウィルスは一つの身体の拡張から別の身体の拡張へと伝染し、いまや個人の身体の一部である個々の端末のメモリを書き換えることで、それらの端末をウィルスの増殖に貢献させる。しかも、ウィルスは単に感染した端末すなわち拡張された身体にその増殖を手伝わせるだけでなく、しばしば害をなす。コンピュータ・ウィルスのこうした性質は、生物学上のウィルス――それは、感染した生物の身体を構成する細胞を利用して増殖しながら感染を拡大するものであり、しかも、しばしば生物の身体にとって害毒となるものである――と実に似通っている。この通り、「コンピュータ・ウィルス」という隠喩は、単に隠喩として正当であるというばかりでなく、マクルーハンの考えとも通じ合うものだ。
とはいえ、上に述べたような悪影響は、いわゆる「コンピュータ・ウィルス」に限ったことだろうか? ある意味では、言葉というのは、そもそも「ウィルス」のようなものなのではないだろうか? それは伝わり、そのことで患者の語りを染める。そして、このウィルスに侵されることで、患者は言葉のさらなる増殖と感染の拡大に貢献することになる(確かに、一つの見方としては、僕らは誰かに言葉を教えられてしまいさえしなければ、何も語らずに済んでいたはずだ)。
だが、こうした考えは、H2Oの毒性を多面的に考察するという冗談(この冗談において語られるところによれば、この物質は依存性が極めて強く、禁断症状として猛烈な喉の渇きや幻覚などの禁断症状を催す場合があり、それを放置した場合は確実に死亡する)を思い出させる。言葉はウィルスであり僕らは言語中毒に侵されているというのは、結局のところ一種の冗談に他ならないだろう。まあ、どちらかといえば、こうした冗談よりはむしろ、『リング』シリーズの呪いのビデオテープを思い起こさせる話だとも言える。
しかし、それ以上に、「インフルエンザ」という言葉を見るたび、僕には、あるとき目に映った――むしろ「感染った」と表記したほうがよいかもしれない――次の俳句が絶えず思い出され続けていて、もはや頭を離れないのだった。
インフルエンザウィルスを吸ひ込む 寺澤一雄 (『鏡』 第四号 2012.4より)
こうして、もともとは句に対する評など意図していなかったはずの散文が、すっかりそうしたものとして読みうるようになる。
ミームという言葉が一時期流行りましたね。
返信削除http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0