〔ためしがき〕
盗まれたい手紙
福田若之
この手紙は、ためしがきに混ぜて、ひとまず机の上のこの目立つところに置いておくので、もし良かったら、そっと盗んでいってくれたらと思います。表向き――というと、まるで裏向きがあるようですが、ここはすでに週刊俳句の裏ですね――は普通のためしがきのかたちで、宛名も何もなく、忍ばせておきます。そのうち、あとから書き付けていく別のためしがきの下に埋もれてしまうでしょうけれど、それもまた悪くないと思っています。実は、そのこと自体、この手紙の趣旨とも関わっています。「趣旨」といっても、たいしたことではありません。俳句史についてです。
そもそも、歴史はいつ始まるのでしょうか。それは、なにかが忘れられたときなのではないでしょうか。思い出すことは、忘れたから思い出すのであって、いま分かっていることは、忘れられていないからこそ、歴史ではないのでしょう。そして、現代史というのは、いま現にそうであるにもかかわらず僕らがそれをすっかり忘れてしまっていることについて、思い出すことなのでしょう。
だから、俳句史は、俳句がなにかを忘れたときに始まるのではないでしょうか。実際に、俳句はいまでも――あるいは、いままさに、かもしれませんが――多くのことを忘れている気がします。
これは、ついこの間、ためしがきではなく書いたことですが、僕は、たとえばソクラテスなどとは違って、書かなかったことのほとんどは忘れてしまうと、自分で感じています。ここから少し脱線しますが、だから、僕の場合、時評を書くというのは、そのときそのときに見えたことや思ったことや考えたことなどを明日にも忘れてしまうということに対して、予め備えるという意味があります。しいて言えば、この「明日にも」が時評と評論を分けるところのように、僕には思われます。時評が必要なときというのは、書かなかった場合、下手をすると、そのときの自分の好みさえ忘れかねない気がするのです。あるいは、何かを好きだなと思ったのは覚えていても、細かいところでどこをどう好きだと思ったのかは忘れてしまったりするのです。さて、脱線が過ぎたので、ここで、話を軌道修正します。書かなかったことのほとんどを忘れるということは、実際は、個人の記憶よりも社会の記憶に顕著なことです。社会は、個人以上に、書かなかったことを片っ端から忘れていくものでしょう。
そして、俳句は、それが単に形式であるという以上に、文芸の一つのジャンルである限りにおいて、社会的なものだと思うのです。形式というのは、おそらく記憶のかたちであって、何かが内容を持つということ自体が一つの形式によるものである以上、その「かたち」という中に普段僕らが「内容」と呼んでいるものを含めてしまうならば、形式というのはもはや記憶そのものということにもなろうと思うのですが、それに対して、ジャンルというのは対話でもあるのではないでしょうか。ジャンルは、記憶の対話であり、また、対話の記憶であるように思われます。それは、往復した書簡が、記憶の対話であり、対話の記憶であるのと同様です。
俳句史と呼ばれるものは、僕の知る限りでは、形式の歴史であるよりは、ジャンルの歴史であるように思うのです。ジャンルが一つの対話であり、したがって一つの社会である以上、ここでいう俳句も一つの社会であって、俳句史は社会の記憶に関わるといえます。したがって、その記憶は書かれたものになることを志向します。だからそれは歴史というかたちをとるのだと思います。そしてまた、この歴史は、ジャンルの歴史である以上、すなわち、対話の記憶の想起であり、また、記憶の対話の想起であるということになります。
しかし、ここでソクラテスたちに耳を貸す必要があるかもしれません。書くことは、それ自体、覚えるのを文字に任せて、自分は忘れるということでもありうるのです。ここには、平行する二つの忘却が想定できます。ひとつは、ソクラテスが言ったとされているように、書いたことは、書かれたものが覚えているので、人は覚えている必要がないから忘れる、という忘却です。そして、もうひとつは、書くことは、書かれたものを作り出すと同時に、その余白に、書かれなかったことを取り残すので、人はその取り残しを忘れる、という忘却です。もしこの平行する忘却が同時に起こるなら、書かれるもののあることによって、人はほとんどのことを忘れるということになります。
そして、先にもそれとなく述べたとおり、歴史は書かれたものです。書く以外に歴史をどうしたらよいでしょうか。この問いに画期的な答えがあればと思うのですが。もちろん、この場合、口伝えはほとんど書かれた歴史と違いがありません。歴史の口伝えにおいて、聞き手は歴史を頭の中に書き込まれるものだからです。先に、歴史が始まるのは、おそらく、なにかが忘れられたときではないかということを書いておきましたが、そこで、歴史の始まりを思い出すことだと書かなかったのは、こういう理由からです。歴史は、それ自体、書かれたものである以上は、忘れることと不可分なのです。だとすれば、俳句史は、対話の記憶の忘却であり、また、記憶の対話の忘却であるということになります。
ギリシャ哲学に詳しい方が読んだらどう思われるのか、僕には分からないし、話半分に読んで欲しいのですが、想起と忘却がこれまで書いたように一体であるということをはっきり示すものとして、ソクラテスの対話を記述したプラトンの一連の著作があるように僕は思います。おそらく、これも俳句史と同様、対話の記憶かつ記憶の対話の、想起かつ忘却です。
プラトンはある意味で、書くことによってソクラテスの思想を牢獄から救い出したといえます。とすれば、プラトンは弟子として、実際には果たせなかった救出を、象徴的に果たしたのです。個人的には、これこそがプラトンを書くことに駆り立てた衝動だったのではないかと、勝手に思っているのですが、いまはそのことは置いておきましょう。ソクラテスの言葉は、プラトンが書いたからこそ、長い年月を経た今でも読むことができます。しかしながら、この書くことは、ソクラテスその人を完全に殺したとも捉えることができそうです。というのも、もし、書くことが本当にソクラテスの思想を牢獄から救い出したのだとすれば、いまや生きたソクラテスがいなくても、その思想を知ることができるということになるからです。そのとき、人は生きたソクラテスを忘れるでしょう。
そして、もし、逆に、もはや生きたソクラテス本人に確認を取れない以上、いくら書かれたものがあっても彼の思想を正しく知ることができないのであるなら、プラトンはソクラテスを救うことに失敗したことになります。そのとき、プラトンはまだ生きたソクラテスを必要としていて、彼には生きていた頃の彼が可能な限り繰り返し思い出されることになるでしょう。
要するに、プラトンの書くという行為は、ソクラテスを思い出す限りではソクラテスを忘れることであるように思われるし、ソクラテスを忘れる限りではソクラテスを思い出すことであるように思われます。おおよそこんなふうにして、書くことにおける忘却と想起は切り離せないといえるでしょう。
さて、このあたりで白状しなければならないでしょうが、少なくとも、歴史というものについての話は、おおむね、すでにいろいろな人がいろいろなかたちで書いていることを僕なりにまとめなおした、つぎはぎにすぎません。なぜ、すでにいろいろなかたちで書かれているかといえば、歴史それ自体は俳句に関わらず多くの人が興味を持つ事柄だからでしょう。では、とりわけ俳句史はどうか。それを考えるには、俳句がどのような対話のどのような記憶であり、どのような記憶のどのような対話であるのかを、考えなければならないでしょう。さしあたり、このことこそが問題だと思います。というより、むしろ、この問いに答えるということは、俳句史を書くことに等しいのではないでしょうか。
誰かがあなたにとっての俳句史に組み込まれたり、誰かがあなたにとっての俳句史から外れたりするのは、あなたがこの問いに答えるそのときなのではないでしょうか。だから、誰かがあなたにとっての俳句史にあらかじめ組み込まれているからといって、参ってしまうことなどありません。たぶん、もっと参ってしまうことは、むしろ、すべてを書くことはできず、すべてを俳句史に加えることはできないから、あなたも、誰かを、あるいは少なくとも何かを、書くことで忘れざるをえないだろうということです。それを自覚的に引き受けるのは、つらいことでもあると思います。ですが、俳句史を書く、というのは、まさしく、それを引き受けることでもあるのではないかと思います。そのときに何かしら救いとなるのは、歴史は忘れることから始まる以上、あなたが忘れたことから、また誰かが俳句史をはじめるだろうということかもしれません。
さて、これはあくまで、表向きはためしがきであって、しかも、たった一通の手紙にすぎませんから、ひとまず、ここでやめておきます。あとは、そちらで、もし、これを忘れるなり、思い出すなりしていただけたら、幸いです。
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