Stand against the Mirror
福田若之
要約すれば、「〈鏡〉の前に立つ〔stand against the Mirror〕ことによって、僕は僕になるのだ」ということになるのだろう。鏡に映る像によって自らを認識するという、この鏡像段階論の構図は、さまざまな場で有効であるには違いない。
しかしながら、こうした〈鏡〉の使用法があまりに支配的である以上、それをずらしてみることもまた必要だろう。とりあえず、それをためしてみることはできるはずだ。いくつかのモデルを立てることで、僕らは〈鏡〉に反対の立場をとる〔stand against the Mirror〕ことができるはずだ。
まず、ナルキッソス神話からはじめたい。ここで重要なのは、ナルキッソスはナルシシストではない、ということだ。ナルシシストは、鏡に映っているのが自分であることが分かっている。ナルキッソスは、水面に映っているのは自分ではないと思っている。それどころか、鏡像ですらないと思っている。すなわち、何かが映っているのでさえないと思っている。このとき、鏡には、鏡像段階のはじまり(「何かが映っている」)とおわり(「これは僕だ」)のどちらもない。したがって、この鏡は、〈鏡〉ではない。ナルキッソスは水仙と化し、今でも、それを〈鏡〉とは別のものとして読むことを続けているのだ。このため、ナルキッソスにおいては、何かが――あるいは、何かを絶しただろうものが――、もし、それがありえたならば、宙吊りになってしまったことだろう。もし、それがありえたならば、結論に代わっただろう何かが。ただし、もし、それがありえたとしても、それを偽りなく語ることは仮定法によってしかできなかっただろう何かが。
ナルキッソスへの罰が、エコーへの倦怠、すなわち、声の反響への倦怠によって彼女を傷つけたことに対して与えられたものであることも示唆的だ。ただし、エコーすなわち反響も、この神話の中では、彼ではなく彼女であるということを忘れない限りで。ナルキッソスは彼にとって反響でありえたかもしれないものに退屈して、彼にとって鏡像でありえたかもしれないものに魅惑されたのだった。
鏡像でありえたかもしれないもの。ここから、鏡像を見ることを疑うことがはじまる。鏡に反射という性質をもう一度見出すことにする。ただし、ここで目を向けるのは自らの鏡像ではなく、その背後だ。僕らは、それによってしか、背後を見ることができない。しかし、一方で、僕らは、それによってでは、背後を見ることができない。なぜなら、自らの鏡像が邪魔になって、その後ろを見通すことができないからだ。このとき、鏡像は目的ではなく、目的との間に挟まれた障壁になる。僕らがスクリーンと映写機のあいだに立ってしまっていて、そのために像は不完全になり、このとき、僕らこそが闇になる。鏡に映らない吸血鬼への憧れが生じる。鏡にしか映らない幽霊を見るために。
しかし、こうしたずらしも、結局は〈鏡〉にもたれかかる〔stand against the Mirror〕ことに過ぎないのかもしれない。〈鏡〉の前に立つもの(あるいは、〈鏡〉に反対の立場をとるもの)(あるいは、〈鏡〉にもたれかかるもの)〔A man who stands against the Mirror〕が、現実的にも、想像的にも、象徴的にも、盲目であるという可能性に、盲目でありつづけてしまったことによって、これらのずらしは結局のところ、〈鏡〉にもたれかかり続けてきてしまったのではないだろうか。結局は、ザ・フーの『トミー』(1969年)がそうであったように、誰かに、すなわち、他者に〈鏡〉を壊してもらうことでしか、その盲目を克服することはできないのかもしれない。
0 件のコメント:
コメントを投稿