【みみず・ぶっくす 17】
わたしが物音を愛する唯一の理由 小津夜景
物音が好きで、いつも聴いている。音楽でも雑音でもなく。物音。何かが来た!と驚かされる感じがほんとうに素敵だ。物音が立つと、いばらの中で踊るような苦しみと同時に、世界がばらいろに染まる幸福に満たされ、私はそっとうちふるえる。
この間は、ひさしぶりに職場の図書室でとびきり素晴らしい物音に出くわした。その瞬間、私はものすごい速さでその音を振り返つた。が、そこに居たのはただの見慣れた同僚で、しかも私がばらいろに驚いた顔をしているものだから向こうはもっと驚いて、自販機で紙コップのカプチーノを購入するとすぐさま、そそくさと逃げるように出て行ってしまった。
私は図書室にひとり残された。
……。
わたしに始めてひとりのひとが与えられたときに
わたしはただ世界の物音ばかりを聴いていた
という詩が、たしかあった。
カナリア株式会社と聞いて
想ひ出すものの総てを想はずにゐた
という歌が、たしかあった。
いつかお父さんはおっしゃった。
誰かを愛する唯一の理由は、理由が無いという事だと。
という劇も、たしかあった。
私が物音を愛する理由も、理由がない、それだけ。そして物音に出会うたび、物音とは時間の躓きに違いなく、つまずいていない時はシーシュポスの苦行みたいに同じトポスをくるくる巡っているのだ、と考える。物音は私と出会っても、こちらに目もくれず、一瞬よろめくだけで、もとの時間の姿に戻ってしまう。そうして同じトポスをまたくるくると回りはじめる。
私は待ちつづける。新しい物音を。それは私に何かを思い出させるだろう。そして《思い出す私》はといえば、その思い出したものを想うことなく、ただ息をひそめていることだろう。思い出すといっても、過ぎ去ったものなど何もないのだから、想うべきこともまた存在しないのだ。
時間というのは《いま・ここ》の自転運動であり《いかなる時も》時間自身にのみ帰依している。一切の存在を無視して。だからこそ時間はこんなにもくりかえし、くりかえし、くりかえし、くりかえし、くりかえして、くりかえして、くりかえして、やっとつまずいて、そして私はこう呟く。
ああ、なんという物音。
鳥雲に仕舞ひし櫛をとりだしぬ
包帯をほどき春日のそらもやう
言伝は迷ふ鳥なりつちふるを
風船にしづかな人のゐたものだ
春鮫がのさばる花を折檻す
国境に近き夜を踏むあめふらし
しやぼん玉枯山水に溺れをり
那夫塔林(なふたりん)さまよひなんといふ朧
流氷を摘まめる頃の帰釧かな
春および不純物から成つてゐる
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