〔ためしがき〕
散文としての俳句福田若之
富澤赤黄男もまた「俳句は詩である」と書いた。それは、彼においてはおおむね正しいと言えるだろう。彼の俳句のうちの最良のものは、どれも、疑いようもなく詩である。
草二本だけ生えてゐる 時間 富澤赤黄男
詩であるということは、この句における「時間」の一語がその極致であるように、言葉がものとして立ち上がっているということであり、もはや意味を伝達するための道具として言葉を用いる手つきがそこには認められないということだ。僕は、たとえば高柳重信や阿部完市の俳句の多くが、違うやり方で、しかしながら同様の意味で、詩であることを知っている。
身をそらす虹の
絶巓
処刑台 高柳重信
たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる 阿部完市
「俳句は詩である」という力強いアフォリズムは、彼らの仕事によっても実証されているかのように見える。
しかしながら、俳句の多くは詩であるよりもずっと散文である。俳句を書く人が、それによって言葉の質感よりはむしろ意味を伝えようとするとき、その俳句は散文として立ち現れることになる。
おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ 御中虫 *「何度」に「なんぼ」とルビ
もちろん、この句が主張するところは文字通りのものではないだろう。しかし、挑発的な態度によって言葉の質感よりはむしろ意味を投げかけようとするこの句は、その限りで、間違いなく散文である。
こうした散文としての俳句は、決して新しいものではない。
これよりは恋や事業や水温む 高濱虚子
在る程の菊投げ入れよ棺の中 夏目漱石
また、次のように、命令形や呼びかけを伴わなくとも(すなわち、句が二人称の他者の存在を必ずしも示唆していない場合にも)、言葉がその意味によってことがらや情景を伝えることに費やされる場合、その句は散文であると言える。
をととひのへちまの水も取らざりき 正岡子規
ひつぱれる糸まつすぐや甲虫 高野素十
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
まつすぐな道でさみしい 種田山頭火
そもそも、芭蕉の俳諧の発句からして、そのいくらかは散文の一部としてこそ最大の活力を持ったのではなかっただろうか。
人が「散文的」という言葉を俳句に浴びせるとき、それはほとんどの場合、否定的なニュアンスを伴っている。 俳句が詩であるとは簡単に認めない人たちでさえ、俳句が「散文的」であることを良しとすることはほとんどないし、ましてや俳句が散文そのものであることを許すことなどまるでないといっていいだろう。だが、散文としての俳句の潜在的な力は、もっと認められてもよいのではないだろうか。人の胸を打つのは、詩の言葉ばかりではない。散文もまた、人の胸を打つ。そして、俳句が人の胸を打つのは、しばしば言葉の質感によってではなく、言葉の意味によってである。すなわち、詩としてではなく、散文としてである。
そして、今日において、その極北に位置づけられている作家こそ、おそらく筑紫磐井その人なのだろう。
俳諧はほとんどことばすこし虚子 筑紫磐井
もちろん、こうした例は、ただちに俳句とは散文であるということを意味するのではない。実際、筑紫磐井の句にしても、たとえば〈吾と無〉といった句があることを忘れてはならない。こうした例は、俳句においては詩と散文が未分化であることを示唆している。ジャンルとしての俳句は、未‐詩であり、未‐散文である。いま、もし「未‐」と書くことが僕らに許されたのであれば、詩や散文や俳句と呼ばれているこれらのジャンルは、状態であるか、あるいは動きであるということになるだろう。仮にジャンルとしての俳句をひとつの動きとみなすならば、それは震えであるように思う。俳句というジャンルにおいては、言葉は詩と散文のあいだで震えている。
僕らは、この震えの最も激しい顕在化の例を渡辺白泉の句に見ることができるはずだ。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉
銃後といふ不思議な町を丘で見た
これらの句における「戦争」や「銃後」は、言葉の質感と意味のあいだで繊細な震えを保っている。これらの句を、一般に「震災詠」と呼ばれたもろもろの句――そのほとんどが散文としての俳句であって、それゆえにこそ書き手の社会参加(サルトル的な意味での「アンガジュマン」)を可能にした――と比べれば、両者は実に対照的だ。
たしかに、僕らはしばしば完全に詩であるような俳句や完全に散文であるような俳句に出くわすことがある。しかし、それらの句がそうであることは、ジャンル全体から見れば、さしあたり、どれも偶発的なことにすぎないように思われる。だから、たしかに、ほとんどの句については、それらを散文としての価値によってのみ判断するわけにはいかない。しかしながら、同様にして、それらを詩としての価値によってのみ判断するわけにもいかないのである。
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