2015年5月12日火曜日

〔ためしがき〕 〈危機〉のありかを問う 福田若之

〔ためしがき〕
〈危機〉のありかを問う

福田若之


柳本々々「【短歌】危機意識としての毎日歌壇、或いは毎日新聞・毎日歌壇・加藤治郎 選・特選・2015年4月14日」によれば、4月14日付の「毎日歌壇」に掲載された複数の短歌には、「危機は、じぶんの〈内部〉じゃなく、〈外部〉からやってくるという意識」が共通している。そして、そこから一つのテーゼが導かれる。すなわち、「〈危機〉や〈終わり〉は実はわたしたちの〈外部〉に担保されている」。しかし、それだけだろうか。引用されている歌をもう一度読んでみよう。すると、こんな一首が目に留まる。

おまえいまはぐれているんだそのことに気付かないまま行くのかおまえ   山尾閑

この歌における危機とはすなわち知らないままでいること、つまり無知である。このことは、〈危機〉一般について言えるのではないだろうか。〈危機〉の意識とは、無知を自覚することではないだろうか。記事に引用されている短歌を、ここで一瞥してみよう。

新聞がきょうもきてないこの朝に戦車のような羊の群れが  柳本々々

アメリカを脱出したし道端に自由の女神が手を挙げている  内山佑樹

またあたしいとしいひとを傷つけたただもがいてただけだったのに  斎藤見咲子

青空が恋しくなって見上げたら急に青空 目をそらしたよ  松木秀

知盛のごと何もかも見届けん「状況はコントロールされている」  垣野俊一郎

いくつかの殺人事件を聞き流しドライマンゴーみしみしと噛む  佐倉まり子

自販機に反応しない百円を保護しています消え入りそうです  戸田響子

記事の「わたしたち」は、ここで自らの無知を自覚する。そして、そのことこそが危機の表れとなる。そこで、いまや、わたしたちには、〈危機〉を〈悲劇の可能性〉と言い換えることができるように思われる。思い返せば、古くから悲劇のシナリオに不可欠なのは登場人物の無知だった。悲劇が達成されるのは、たとえば『オイディプス王』に典型的なように、登場人物の無知が自覚されるその時である。

無知は未知と不可知のいずれかによるものだ。わたしたちの無知とは、わたしたちにとって何かが未知であるか、何かが不可知であるか、そのいずれかである。そして、未知も不可知も、現在のわたしたちの知の外部の何かである。その意味で、たしかに「〈危機〉や〈終わり〉は実はわたしたちの〈外部〉に担保されている」。しかし、一方で、こうも言えるのではないだろうか。わたしたちの無知は、わたしたち自身に由来している、と。実際、捉えようによっては、わたしたちが何かを知らないままであるのは、それがわたしたちの限界であるにしろ、あるいはわたしたちの怠慢であるにしろ、わたしたちの知の有限性に由来している。たとえば、スーザン・ソンタグたちは、サラエボで、ゴドーを待ちながら、明日をも知れないという不可知(これは言うまでもなく怠慢ではなくて限界である)がすなわち彼女たちの危機であることを再確認したのではなかっただろうか。だから、「〈危機〉や〈終わり〉は実はわたしたちの〈外部〉に担保されている」ということそれ自体を、逆説的だが、次のように言い換えることができるだろう――〈危機〉や〈終わり〉は実はわたしたちの〈内部〉に担保されている。

だが、両者が同じことを指し示しているとすれば、それはどういうことだろうか。それはすなわち、〈危機〉はわたしたちの〈外部〉とも〈内部〉ともいうことができる場所に担保されているということだ。そのような場所は〈境界〉しかないだろう。だから、〈危機〉はわたしたちの〈外部〉と〈内部〉の〈境界〉に担保されているということになる。

いうまでもなく、〈境界〉は分節化とともに生まれる。そして、〈危機〉に関して問題になっていたのは、わたしたちの知の〈内部〉と〈外部〉だった。したがって、〈危機〉は知の分節化によって生まれるということになる。しかしながら、わたしたちは、この〈境界〉をなかったことにすることはできない。そうすれば、わたしたちは自らを自覚のない無知に留まらせてしまうことになるだろう。そのときこそ、わたしたちはまさしくどうしようもない危機にさらされるだろう。わたしたちが〈危機〉を知るには、分別を持つしかない。

楽園追放の物語はこのことを説明するのに極めて適切なモチーフを提供してくれるように思われる。アダムとイブは知恵を得たために、ほとんど赤裸のまま楽園を追放される。この神話と同じように、知はわたしたちを〈危機〉にさらすだろう。それでも、わたしたちはもはや楽園にいるのではないから、知を捨て去ることなどできない。生きるためにわたしたちは知を必要とする。〈危機〉をめぐって、知とは一種のマッチポンプなのである。

ところで、問いは、原則として、わたしたちの無知ゆえに発せられる。そして、問いがわたしたちの意識によって発せられる以上、その問いはわたしたちの無知の自覚を示している。つまり、問いとはその意味において、危機の表れにほかならない。いま、わたしたちは〈危機〉のありかを問うた。〈危機〉のありかに対する無知は、〈危機〉についての危機、無知についての無知だった。そこにはまぎれもない危機があった。そして、その危機はいまも、〈境界〉の不明瞭さとして残されたままだ。わたしたちの〈危機〉があるという、わたしたちの〈外部〉と〈内部〉の〈境界〉とはいったいどこなのか。危機はまだそこにある。

1 件のコメント:

  1. 短歌って米国批判は得意だけど、日本批判は苦手な印象がありますね。塚本は別格ですが。

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