短い、呼吸の。落ち着いた、繰り返し。
散文/福田若之 俳句/小津夜景
まずはじめにあなたが立っていて。そこに僕がたどり着いたのでした。僕は道を来て、あなたはなにやらゆかしいすみれ草のような人で、でも旅人なのはあなたのほうで。あなたはメールの通り、トレンチコート&サングラス&青のカバンで。会ったところで東京のおみやげをくださって(「持ち帰りきれないから」)、でも旅人なのはあなたのほうで。カフェに入ったところで、こちらからも、手みやげにと、ちょっとした冊子を差し出す。
そんなふうにして、僕らははじめました。でも、その前があった。それも、あなたの知らないその前が。
思い出してみましょう。僕らは駅で待ち合わせました。僕は人の流れに乗って、改札を出るまで。前を歩いている人から目が離せなくて。それはどうしてかといえば、その人の後ろ姿はトレンチコート&青のカバンで。あとはサングラスさえかけていたら、ひょっとしたらあなたかもしれなくて。ええ。僕は少なからず、とまどっていたのでした、あなたは改札のところに立っているとメールしてくださっていて、それなのに、僕はあなたの後ろを付いて歩いているかのようで。あなたは駅の外にいるはずなのに、そのひとは僕と同じ電車でその駅に降りたに違いなくて。そしたらそのひとはあなたではなかった。やはり、まずはじめにあなたが立っていて。僕らがカフェに入るまでのしばらく、僕らはその人の後ろを歩いていたのですが、あなたはそれをたぶん知らないと思います。
逝く春のほつれた糸を巻いてゐる
そんなふうにして、あなたは僕にとってゆかしい人でした。あなただと思ったのはあなたではなく(ゆかしい)。それでもあなたはあなたらしく(ゆかしい)。ふと、しゃべることが思いつかなくてあなたのことをじっと見ると。決まってあなたはほのかに笑みを浮かべて、その笑顔がとても不思議で。ゆかしくて。僕は記憶する。まばたき。
まばたきをしやぼんの玉のやうに終へ
お会いする前に僕はあなたのことをすっごく明るい人かすっごく恐い人かすっごく物静かな人のいずれかだろうと思い描いていて。その思い描いていた広がりのなかにあなたがいた、と、そんな話をしましたけれど。今にして思えば、僕はあなたに会う前、あなたのことをゆかしい人だと感じていたのです。そして、会ってもゆかしかった。それが上手く言葉にならなくて、あんな言い方になったのでした。すっごく明るい人かすっごく恐い人かすっごく物静かな人のどれかだろうと会う前から人に思わせるような人は。ゆかしい人です。
今にして語るゆかしき巣箱かな
僕らの対話はほとんど断章的だったように思います。短い、呼吸の。落ち着いた、繰り返し。ときどき、声を息に乗せて。ときどき、それぞれコーヒーとココアに口をつけて。昼のなかった僕はサンドイッチをいただいて。
飲食(おんじき)を手力として息をのむ
した話。サミュエル・ベケットの用いる人称の違いに込められた意味を、カント哲学における感性・理性・悟性に対応させる、あなたの研究。それから、いくつかの句をひとつの作品にまとめる方法について。俳句を散文と組み合わせること。その相性のよさ。芭蕉の頃から。
服を脱ぎながら老ゆるを春といふ
しなかった話。ダンテの『新生』。ほらふきダンテ。俳句じゃないけど、散文と詩の組み合わせ。散文が物語を進めて、詩がそれを彩っている。『おくのほそ道』と同じように。やがては三界を旅するダンテ。ほらふきダンテ。『神曲』は三行で一節。西洋では、俳句は三行で一句。ほらふきダンテ。
三界を三行で書きなのはなへ
した話。音楽には質感がある。あなたは、ひとつの音楽からいくつかの句をつくり、それらをひとつの作品としてまとめることがあると言いました。
ぶらんこにうかぶ天使のくるぶしが
ちょっとだけした話。サルトルが『文学とは何か』のなかでこんなことを書いています――「記号の帝国は散文であり、詩は絵画や彫刻や音楽の側にある」。
ヒヤシンス帝国響く誰がために
した話。散文にも質感がある。僕は、ひとつの散文からいくつかの句をつくり、それらをひとつの作品としてまとめることがあると言いました。
鳥の恋の墓群としてのアンフォルメル
しましたっけこの話。ロラン・バルトの『記号の帝国』。散文のあいだに俳句がちりばめられている。フランスからの旅人が見た「日本」。
ひだまりのバルトは旅人(たびと)芹をつむ
これはしなかった話。漱石の『思ひ出す事など』。やはり、散文のあいだに俳句がちりばめられている。漱石はこんな風に書きます――「「思ひ出す事など」は忘れるから思ひ出すのである」。ついこのあいだ、ハイデガーが『存在と時間』のなかでほとんど同じことを書いているのを見つけました。
くらやみは紙風船を踏みにけり
ところで、これは『思ひ出す事など』ではありませんが。もし人が「菫程な小さき人に生れたし」というなら。その人は、まだ生まれていなかったということになるのでしょう。「菫程な小さき人に生れたし」と書きながら。この句は、菫程な小さき句としての自らを、そして、その小さき句の書き手を書きあげる。その意味で、この句は極小の『失われた時を求めて』だと言えるかもしれません。書くことによって、そこに生まれるわたし。生れたし。れたし。
書くだらうカフカはふるき恋文を
一人称の「れたし」は感性でしょうか。悟性でしょうか。理性でしょうか。れたしは生レタスが好きです。生れたし。
レタスより溢れて白き理性かな
おどろいた話。あなたが最初に読んだ句集は高山れおな『俳諧曾我』だったということ。この八分冊の三冊目にあたる「フィレンツェにて」では、俳句のあいだに散文がちりばめられている。「フィレンツェにて」での書き手も。旅人。
ほのぼのとバジルに埋もれ春の暮
俳句のあいだに散文がちりばめられている。散文のあいだに俳句がちりばめられている。結局のところ、それらはおなじひとつのことなのでしょう。
ゲーテかく語りき、つまり
「椅子にゐてまどろみし後水差しに
水あるごときよろこびに逢ふ」
芭蕉は旅人だから――それも、時とともにゆく旅人だから――ひょっとしたら僕らのところにもふらっとやって来るかもしれません。ある夜。ターミネーターのように、全裸で。電流をまといながら、路地裏にうずくまっているかもしれない。あるいはデロリアンに乗って、落雷のエネルギーで。この未来に帰ってくるかもしれない。クリストファー・ロイド扮する芭蕉と、マイケル・J・フォックスが演じる曾良ジョニー・B.グッドなんか歌っちゃって。
真裸の旅に連れ立ち春の雷
ウェルズが彼のタイム・トラベラーに語らせたところによれば。時間旅行の基本原理は、僕らの回想にすでに現れているのだといいます。思い出すとき、僕らは過去に飛んでいるんですって。思ひ出す事など。
あしびきの永き日を飛ぶメール便
あなたは。僕をカバンに詰めて持って帰っちゃいたいと言いました。僕は。vos souvenirs のひとつになることができたでしょうか。
かつて糸なりし朧を抱へこむ
いただいた東京みやげは、ビールにとてもよく合いました。
註 俳句の中に引用された歌は、玉城徹『香貫』より引用。
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