2015年6月1日月曜日

●月曜日の一句〔冬野虹〕相子智恵



相子智恵






いつのまに虹とよばれぬ巣に星ふる  冬野 虹

『雪予報/冬野虹作品集成 第1巻』(2015.4 書肆山田)より

「虹」は夏の季語でもあるが、おそらく「冬の虹」という冬の季語から取られたであろう作者のペンネームでもあるから、〈虹とよばれぬ〉は、自身の名前が呼ばれたのでもあり、虹そのもののことでもあろう。

現れてすぐに消えてしまう虹。気象条件が合わなければ見ることができない美しい光。思えばあの空の虹を見て、いつ、誰が、初めて「虹」と呼んだのだろうか。初めて「虹」と名づけた人に思いを馳せるとき、その短い邂逅の感動を何とか名づけて呼びかけたかった気持ちが思われてきて切なくなる。そして虹はいつの間にか「虹」と呼ばれるのが当たり前となって、いま私たちの前にも現れるのだ。

取り合わされた〈巣に星ふる〉が、「名を呼ばれること」への思いをこのように、はるか原初にまで遡らせる。

巣は誕生の場所でもあり、鳥や獣たちが体を休める場所だ。生きていることとともにある場所である。星が降る夜だから、鳥や獣たちは眠っているのかもしれない。眠りに落ちた静かな巣に降ってくる星の輝きは、何千、何億光年もの距離を超えて届く、過去の星の光である。鳥や動物が生きている短い時間と、何千、何億年もの時間をかけて届く星の光との一瞬の邂逅、そのスケールの大きさと奇跡が、名を呼び、呼ばれ、過去に付けられた名が残るということと相まって、名を呼ぶことの意味を原初にまで遡らせ、名を呼ぶという行為がかけがえのないものであることを再認識させるのである。

この句は虹と呼ぶ側ではなく、呼ばれる側が主体である。それが作者の名であり、いつの間にか「虹」と我が名を呼んでくれる人が傍にいるということは、作者をどれだけ幸せな気持ちにさせただろうか。名を呼ばれること、呼ばれ続けることの幸福を思う。

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