〔ためしがき〕
ローベルト・ムージルの想像的な背骨について福田若之
ミラン・クンデラの散文フィクションである『不滅』の菅野昭正訳(集英社、1999年)には、『特性のない男』の作者として知られるローベルト・ムージルについて書かれた、次のような一節がある。
私はローベルト・ムージル以上に親愛なる小説家を知らない。彼はある朝、バーベルをもちあげているときに死んだ。たまたま私自身がバーベルをもちあげることになったりすると、私は不安な気持で脈拍に注意し、そして死んだりしてはと心配になるのだ。というのは、わが親愛なる作者と同じようにバーベルを手にして死ぬこと、これは私をじつに信ずべからざる、じつに猛烈な、じつに狂熱的な亜流に仕立て、それで笑うべき不滅が私にただちに保証されるということになるだろうからである。(84-85頁)『不滅』の原文はチェコ語で書かれているが、先に出版されたのはクンデラ自身によるフランス語訳であり、原文と同等の正当性をもつとされている。そのフランス語訳を確認すると、ムージルが死んだときにもちあげていたのは単数の«un haltère»ではなく複数の«des haltères»である。たしかにhaltèreはバーベルを意味することもあるが、ダンベルを意味することもあり、この場合は左右の手にひとつづつのダンベルをもったまま死ぬ姿を想像したほうがよい気がする。とはいえ、いずれにせよ、この挿話はクンデラの創作である可能性が高い(ムージルが筋トレ中に脳溢血で死んだというのはどうやら史実らしい)。なお、チェコ語でもダンベルとバーベルのそれぞれについてčinkaという同一の語を用いるらしく、いずれにせよ文脈で判断するしかなさそうだ。そもそも、barbellという英語自体、bar(棒)とdannbell(ダンベル)の合成語らしい。とはいえ、バーベルをもちあげて死ぬというのとダンベルをもちあげて死ぬというのとでは、それを笑うときの笑いの質が大きく異なるように感じられる。前者で笑いにつながるのは誇張されたイメージそれ自体だが、後者で笑いにつながるのは人間的な悲哀ではないだろうか(『不滅』の文脈上は、断じて後者であるべきだと僕は思う)。
だが、そのことは今はどうでもいい。
これを読んでからというもの、今井聖の〈バーベルに月乗せて反る背骨かな〉の一句が、僕の中で、ムージルの顔とべったりくっついて離れなくなってしまったのだ。
顔を真っ赤にしながら、雄叫びとともにバーベルを上げ、そのバーベルに月を乗せて反り返るその人が、頭の中で晩年のローベルト・ムージルになっている。ムージルが死んだのは朝だが、バーベルに乗っているのは満月だ。
『不滅』の冒頭部では、主人公の一人であるアニェスがどのように造型されたかが物語られている。この作中人物は、書き手の「私」がプールサイドで見た、一人の女性のちょっとした仕草から生み出される。肉体の動きの瞬間的な断片が不滅の輝きをもって僕らの眼に映るとき、僕らはその人物についての想像的なものを獲得する。僕らは、それによって、しばしば、その人物を記憶する。バーベルの句には、明らかに、そうした肉体の動きの瞬間的な断片のひとつが表象されている。だからこそ、それがバーベルという素材を通じて『不滅』が語るローベルト・ムージルのイメージと癒着してしまったに違いないのだった。
ローベルト・ムージルの背中に通った三十三個の脊椎骨のひとつひとつを、そして、バーベルを持ち上げる際のその滑らかな動きの連動を想像してほしい。折れそうで折れない。その上には血管を浮き上がらせて紅潮した彼の頭部がある。くぐもった嗚咽とともに、二つの目がかっと開いた。その上にはバーベル。その上には月。一瞬の硬直。この劇的なシャッターチャンスを逃すまいと、カメラのフラッシュとシャッター音が大量に浴びせられる。静止はすぐさま崩れ、ムージルは後ろへ力なく倒れこむ。バーベルは両手を離れて落下し、大きな音を立てて一度だけバウンドすると、そのまま向こうへ転がっていく。ムージルの目は見開いたまま動かず、彼の体からしだいに血の気が失せていくのが分かる……
だが、もし、クンデラが意図していたのがバーベルではなくダンベルであり、それさえもクンデラの脚色であるならば、バーベルをもちあげるローベルト・ムージルは『不滅』の邦訳の中にしか存在しないことになるのかもしれない。いずれにせよ、バーベルに月を乗せて反るローベルト・ムージルの背骨は、どこにもない想像的なものに違いない。だが、僕はローベルト・ムージルのことを、このイメージによって、もはや忘れることはないだろう。
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