2015年6月16日火曜日

〔ためしがき〕 人文学は不可欠だと説得するために、考えられる理由のいくつか 福田若之

〔ためしがき〕
人文学は不可欠だと説得するために、考えられる理由のいくつか

福田若之


とはいえ、言うまでもないことだけれど、僕は、その影響が及ぶ範囲の全域を見渡すことができているというわけでは決してないし、そうであるかのようにふるまうつもりもない。数ある学問のそれぞれをよく知っているというわけでもなければ、数ある大学のそれぞれをよく知っているというわけでもないし、自分が属しているところのなかでも、さらに自分にごく近い狭い範囲だけが、かろうじて少しばかり垣間見えているように思われる、というぐらいにすぎない。

だから、ここに書かれることは、きわめて浅い話、まだ学ばなければならないことをたくさん抱えている筆者が、現状そう思うという範囲で書きとめるささやかな一つの意見にとどまるだろう。それでも、考えられるかぎりで、そうした意見を書いておこうと思う。

それを他ではなくここに書くのは、こうしたこともまた、俳句と関係しているように僕には思われるからだ。さまざまなことが俳句に関係して見えるからこそ、これまで、あんなことやこんなことについて、ほかではなくここに書いてきた。必ずしも俳句との関係を明示してきたわけではないとしても、そうだった。

では、なぜ、そんなふうにしばしば俳句とのかかわりを曖昧にしたのか。

とりあげたものが確かに俳句に関係しているように思われたとしても、決して俳句ばかりに関係しているわけではないということがある。そういうとき、書きたいことをとりたてて俳句に関連づける必要がないときは、できるだけあらゆることと自由につなげられるようにしておくほうがよいと思われた。それが、かかわりを曖昧にしておいた理由だ。実は、ここまでで書いたことも、これから展開する主張と全くつながりがないわけではない。

さて、ここから本題に入ることにしたい。

人文学は、おそらく、虚偽や誤謬を含めたあらゆる資料を生産的に読解することのできる、ただ一つの学問範囲だと思う。いったい、資料に嘘や誤りや偽りが生じる過程そのものが研究の対象になりえたりするような学問が、自然科学にあるだろうか。人文学の廃止は、学問からあらゆる過去の嘘や誤りや偽りを排斥することに他ならない。

おそらく、増え続ける蔵書の保存に手を焼いていた大学図書館は、研究に使われなくなった蔵書から、処分していく。すると、人文学部のなくなった大学の図書館には、いずれ、外面的には正しく新しいような無数の書物だけが残されることになるだろう。人文学部がまるごと廃止されたら、それに伴って、もはや専ら歴史を顧みることを引き受けるような学問はなくなってしまうのだから、大学がそれらを資料として保管しておく理由はほとんどなくなる。

一見すると、学問にとってそれの何が問題なのか分からないかもしれない。しかし、まず言えることとして、僕らは、失敗を忘れればそれをいつか再び繰りかえすのだから、過去の過ちは取っておかなければいけないはずだ。

もちろん、理由はそれだけではない。

資料が捨てられる、あるいは、古い資料を読むことが失われるということ。これは大変な問題だ。人文学が廃止されて古文の読解を専門とする人間がいなくなれば、たとえば、地震学者だけで『かなめいし』を読み継いでいくことができるだろうか。そもそも、わざわざ学問としてこれを読もうと思い立つことのできる人がどれだけいるのだろう。『かなめいし』は、1662年に京で起こった大地震の記録だ。たしかに当時の記述が与えてくれる知見に限界があることは否めないとしても、僕らがこの文献から知ることのできることは、決して少なくはないと思う。

『かなめいし』を読むためには、『かなめいし』だけを読んでいてはいけない。たとえば、言葉の意味は時代と共に変遷していく。その当時の、言葉の使われ方を知るには、虚構の物語も含めた同時代の多くの文献が研究される必要がある。

また違った問題もある。たとえば、経済学や法学の十全な研究をやるは、多かれ少なかれ、語学を学ぶことも必要になるはずだ。大学から語学の専門家がいなくなったら、研究者はどうやって育てるのか。人文学がなくなれば、こんな問題が、おそらく他のありとあらゆる学問分野で生じることになるに違いない。

ところで、人文学部の廃止や縮小というとき、人はもしかすると、 文学と哲学――人がしばしば「浮世離れした学問」「学問ならざる学問」と信じてやまない二つの分野、実際には、たえず古びて解読困難になっていく多様な言語の読み書きを、歴史学と共同で語り継いでいる、大変重要な分野――のことだけを考えているかもしれない。実際には、槍玉に上がっている分野としては、たとえば教育学がある。

生まれてくる子どもが減れば教育についての研究は人員を必要としなくなるという考えなのだろう。だが、そうすれば、僕らの社会はいまや貴重になってしまった未来の担い手たちに、行き届かない研究にもとづく教育を受けさせることになるだろう。教育学だけではない。おそらく、どんな学問でも、それが学問として成り立つためには人手がいる。

ひとくくりに人文学というけれど、その幅は広い。教育学がそのように扱われる一方で、人文学のなかには、たとえば、社会福祉士や介護師を養成する社会福祉学が含まれてもいる。今日、いったい誰が、これらの学問を不要だなどと言えるのだろう。

あるいは、心理学は不必要な学問だろうか。児童心理学や犯罪心理学といった分野がこの学問に含まれていることを忘れてはいけないだろう。

そして、こうした学問分野といまや切っても切り離せないのが社会学だ。それは、福祉のあり方や群集の心理を考えるために必要な考え方を、上に見た二つの学問に提供している。

となれば、文化人類学も当然、必要な学問であり続けるだろう。歴史学にも社会学にも結びついているこの学問は、一方では、宗教学や神学がもたらす学識を活用することなしには、今日それが提供しているものを決して提供できなかっただろう。文化人類学が、その一方で、文学とも相互に連絡を取り合っているのは周知の通りだと思う。

こんなふうにしてみると、人文学をまるごと廃止することがとても馬鹿げているのは明らかなように思われる。さらに、それだけでなく、どこを縮小することもできない複合的な学問分野であることが見えてくる。すくなくとも、僕には、全国の国立大学に縮小や転換をもとめるなどという極めて大規模な政策としてこのようなことが行われていいようには思われない。

複合的ということで言えば、実は、文学や哲学こそが、他の何よりも複合的であるように思われる。ロラン・バルトは「もし、何やらわかりませんが、社会主義なり蛮行なりの行き過ぎによって、われわれの学科が一つを除いてすべて教育から追放されるざるをえなくなったとしたら、救い出すべきは文学科です」と語った。バルトがそう主張するのは、文学の記念碑的作品の中ではあらゆる科学が提示されていると考えるからだ。バルトは『ロビンソン・クルーソー』のなかに歴史、地理、社会(植民地)、技術、植物、文化人類学の知識を見出す。このことの意味を、今こそ考えるときではないかと思う。

『ロビンソン・クルーソー』の知識がすべて正しいものかどうか、それはさしあたり関係ない。バルトの発言は、『ロビンソン・クルーソー』を読むことが学問に含まれていれば、ほかのあらゆる科学が失われたとしても、この書物の批判的な検討から歴史学、地理学、社会学、工学、植物学、文化人類学を再開し、おそらく復興することができると示唆している。言い換えれば、『ロビンソン・クルーソー』はこれらの学問のバックアップメモリとして機能しうるということだ。

こうした主張は、現実味のない絵空事に思われるかもしれない。だが、かつて国学や蘭学を大成した人々もまた、テクストを読み、そこに書かれていることの正当性を確認することからはじめたのではなかったか。明治期に学問の近代化を図ったとき、彼らもまた、西洋のテクストを読むことからはじめたのではなかっただろうか。読むことがほとんどできないところから、読み始めたのではなかっただろうか。それにどれほどの苦労や、知識の蓄え、読むことそれ自体にかける情熱が必要だっただろう。

学問のなかにあって、そこまでして何かを読むことを今日もっともよく教えてくれるのは、おそらく人文学に属するいくつかの学科――とりわけ文学と歴史学と哲学、およびそれらに近接する諸学だと思う。これらの学問は、何かを知るために読むことから始めるやり方を教えてくれる。失われたものを取り戻す術を教えてくれる。過去がなければ未来はない。

ここに書いた意見が、いささか安易な道具主義に基づく見解のように思えるとしても、それは仕方のないことだ。おそらく、説得しなければならない相手のほうが、いささか安易な道具主義に従っているのだから。ここに書いたことが人文学の本領かどうかはともかく、人文学を守るためには、こうした説明がさしあたり有効なのではないかと僕は思う。

2 件のコメント:

  1. おっしゃっていることは正しいのだと思いますが、生殺与奪権を政府に握られた時点で大学の敗けだったんでしょうね。

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  2. 政祭虚脱野球権2015/06/19 1:10

    予算が取れなくなるのは仕方ないけど、自腹でやる、とか、まあネットに漏らす、とか今後はね。人文の生殺与奪権にぎってどうするんでしょ。山頭火って商標登録されてたんですってね。どの時点だったか、何年何月何日、誰が何を発言し、誰が何をしたときか。何もしなかった人数はいったい何人にのぼるのかなど、「大学」というやつが負けたそのひとときについての考察や、批評、記録文学など、出てきそうですねw生殺与奪権を政府に握られたってああたwペンは剣より強しって丸腰で「我が軍」に期待するようなものでw

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