2015年7月28日火曜日

〔ためしがき〕 ジオラマにたいする愛と憎しみ 福田若之

〔ためしがき〕
ジオラマにたいする愛と憎しみ

福田若之


小さい頃、鉄道が好きで、鉄道模型が好きだった。家にあるのはプラレールだけだったけれど、住んでいたのがたまたま鉄道にゆかりのある街だったから、けっこう大きなジオラマの展示されている施設などがあったりして、そこで何時間も模型を動かしていたのを覚えている。

小さな山や、水辺や、トンネルがあり、 あるいは小さな街の小さな高架駅があって、プラットフォームに待っている小さな人たちは、その小さな駅前にとまっている小さなバスやタクシー、あるいは小さなガード下の小さなパン屋などを利用しながら、生活しているのだろうと夢想した。そのあいだは、僕はそこに別の世界を思い描くことができた。

らくがきちょうに色鉛筆やクレヨンを使って架空の路線図を何枚も何枚も描いたのを、いまでもよく覚えている。家にあった漢字辞典を引っぱりだして数限りない駅名を創作した。ひとつひとつの駅名まではもうほとんど思い出せないけれど、ひとつだけ例を挙げるなら、たしか、ある路線の終着駅を「東海臨」という名にしたのだった。「ひがしかいりん」と読ませる。当然のように、ひとつ前の駅は「海臨」で、その一つ前は「西海臨」だった。その路線は、海に近づいていくにつれて、さんずいや魚偏の字が入った駅名が並ぶ路線だった。そのころ、僕の海の記憶の大半は葛西臨海公園でできていたので、そこから文字が採用されている。この頃の僕にとって、「海臨」という字面は、それだけで、海に面した新興都市の情景をまるごと想像させるような何かだったのだ。

年中あたらしい駅名を構想していた僕に、母が、かつて北海道にあった幸福駅までの切符を見せてくれたのを思い出す。けれど、こうした空想の端緒はいつも鉄道模型のジオラマやカタログだったのである。

けれど、そんな夢想を打ち砕いたのも、まさしくそうしたジオラマだった。ある頃から、ジオラマがにせものであるということが、はっきりと目につくようになりはじめたのだ。

最初に生じたいらだちは、線路の組み方についてのものだった。鉄道模型のジオラマの多くは、線路を環状に組む。しかし、これは現実に反している。交通機関としての鉄道は、山手線などの例外を除けば、ふつうはこんな風になっていないのであって、上り電車は終着駅で引き返して下り電車になって戻ってくるものだ。それなのに、ジオラマでは、同じ電車がずっと一つの線路を回り続ける。

ここからさらにもう一つのいらだちが生じる。ジオラマの線路には、たいていの場合、駅が一つしかなかった。すると、非常に奇妙なのは、この鉄道は何のために走っているのか、ということだ。鉄道が輸送手段として意味をもつのは、駅と駅を結ぶからであって、ただ走っていればいいというものではない。鉄道は、ただ走るのではなく、どこかへ向かって走らなければいけない。

僕は想像力に頼ろうとした。ジオラマの向こう側にはトンネルがある。あのトンネルは、二つの穴がたまたまつながっているように見えるけれど、実はトンネルに入った列車はそのままどこか別の場所へ出て行っているのであって、トンネルから出てくる列車は、それとは別にどこか別の場所から来た列車なのだ。だから、線路はここに見えていないどこかの駅とつながっていて、やはり鉄道はどこかからどこかへ向かって走っているのだ、と想像したのだ。

しかし、この想像にはやっかいなところがあった。駅に列車の到着する間隔があまりにも狭すぎるのである。 ふつう、どんなに頻繁に列車が通る時間帯でも、数分は間隔があるものだ。それなのに、ジオラマの駅には二十秒から三十秒ぐらいの間隔で列車が来るのである。こんな時刻表はありえない。しかも、大都市であればまだしも、ジオラマはむしろすこしひなびた風情のある地方都市だったし、走っているのは新幹線だったりする。新幹線が一つのホームに二十秒から三十秒の間隔で来るなんてことは、ありえない。

新幹線、ということでさらにいうなら、車種の無頓着さも僕をいらだたせた。複線の一方を走っているのが東海道新幹線の三〇〇系であるにもかかわらず、他方を走っているのが通勤型の一○三系だったりするのだ。こんなことはありえない。そもそも、新幹線とJRの在来線では線路の幅が違う。上りと下りで線路の幅が違う路線なんてことは、ありえない。

こんなふうにして、ジオラマに深く没入しようとすればするほど、いよいよ目に留まるようになる細部が僕をいらだたせ、結果として夢想は断たれてしまうのだった。人間たちがあきらかに電車の扉を通って車内の座席につくことができそうにないことや、湖面が実際の水のように風で波立ったりしないこと、電車が電線やパンタグラフもなく走っていることなど、とにかくすべてが、そこに別の世界を夢想することを困難にした。

ジオラマの小さな世界は僕にとっては夢のようで、僕はたしかにジオラマを愛していた。しかし、その世界はけっして完璧には現実を写し取ることがないので、僕はあるときからずっとジオラマを憎んでもいたのだ。

俳句における写生、写実、描写についての僕の態度は、もしかすると、この幼少期の体験に起因しているのかもしれない。写生の言葉が僕の脳裡に生じさせる光景がいかにも現実らしくあるとき、言葉が言葉に過ぎないということがしばしば僕をいらだたせる。にせものは、ほんものに似れば似るほど、より巧妙なにせものになっていく。つまり、ますますにせものらしくなっていくのである。

そして、言葉の巧みさが不審なものに見えるのは、まさにこうしたときなのだ。句会などで「この句は巧すぎて取れない」 という評を聞くことがときどきあるが、そういう意味でなら、この評は理解できる。巧みさが、巧みさそれ自体によってまがいものらしさを露呈してしまうとき、僕らはもはや夢想しつづけることができない。 言葉には、あくまでも言葉として巧みであってほしいのだった。

言葉が光景を語るのではなく、言葉が光景であるとき。ジオラマが再現ではなく、それ自体なにかしらの物であることをあからさまにするとき。僕にとっては、それこそがかけがえのない何かであるように感じるのだった。

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