2015年8月11日火曜日

〔ためしがき〕 途切れのないひとつの世界 福田若之

〔ためしがき〕
途切れのないひとつの世界

福田若之


朝から寒い日だった。僕は中学生だった。吐く息も白くて、学校へと歩きながら、漠然と世界について考えていた。世界情勢とか、そういうことではなくて、より正確に言えば、世界と僕の関係について考えていた。で、そのとき、まったく不意に、ああ、世界って一続きなんだ、と思った。

世界から僕を切り分けて考える理由は、なにひとつないと思った。僕らは皆ことごとく原子からできていて、原子は素粒子からできていて、素粒子は一方では粒子みたいだけど他方では波みたいなものでもあって、たぶん、その素粒子も、よくよく見ると素粒子以上にはっきりしたかたちのないものからできていて、たぶん突き詰めると世界っていうのは無数の何かもやもやしたものの濃淡にすぎなくて、だから、僕というのは、世界の中でちょっとその無数のもやもやしたものが濃くなっているところが、たまたまこんなかたちになって、見えたり感じたりできているにすぎないのだろうと思った。

この場合、もやもやしたものははっきりした粒ではないのだから、濃いとか淡いっていうのはアナログな指標であって、そうだとすれば、僕と空気の間には明確な境界線なんてないことになる。ほっ、と吐いた白い息と透明な空気の間に、明確な境界線がないのと一緒で。

それで、つぎに、どうして僕は僕と空気を別物だとみなしていたんだろうと考えて、これは、名前が別になっているからなんじゃないだろうか、と思った。 たしかに、こっちの肌色に見えているものをがりっとやったらおもわずそれをひっこめたくなるような感覚があるけど、あっちの緑色に見えているものはそりゃあもうがりがりがりがりされていても何にも気にならない。とはいえ、そういう違いがあるとしても、そんなのは濃いところと淡いところの分布の問題であって、こっちの肌色とあっちの緑色は一続きのはずだ。それを腕と名付けて、木の葉と名付けるから、それが切り離されて見えてくる。

このことを、僕らの認識する世界はどうしようもなく言葉でできているんだ、というふうに捉えることもできるはずだ。でも、当時の僕は、むしろ、言葉で世界を語ることはまったくできないだろうというふうに考えた。

だから、自然科学でさえ、世界そのものを語っているのではないと思った。自然科学は、それがどれだけ客観的で真正であるように思われるとしても、それが何かしらの言語で世界を語ろうとする限りで、世界の途切れのなさをとらえそこねるのではないかと思った。文学も同じだ。文学は、いよいよ普通の意味での言葉でしかないから。

世界と言葉が表面上は似ていないという僕の考えは、実はいまでも大きくは変わっていない。それでも、ひとつだけ大きく変わったことがあるとすれば、言葉もまた世界のなかでしか言葉ではないのだと感じるようになったことだろう。きっと、言葉というのも、突き詰めると無数のなにかもやもやしたものが織り成している何かにすぎないのだ。

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