2015年10月17日土曜日

【みみず・ぶっくす 42】 川柳とその狂度 小津夜景

【みみず・ぶっくす 42】 
川柳とその狂度

小津夜景





 いったい川柳は、どのくらい俳句から遠いのか? 
 そう考えるときよく思い出すのが〈身体性の過剰な改造〉といった、川柳のひとつのパターンだ。
 俳人は身体の変質をあまり好まない。たとえ身体の違和や異化を詠もうと、それは文字通り違和や異化にすぎず、その中心にある身体への幻想はゆるがない。また身体性の問題を意識している俳人にしても、彼らの作業は身体をめぐる並の言説を疑い、その現象をくりかえし捉え直すことに費やされる。即ちそこでは〈本来の身体〉なるものが空虚なシニフィアンとして、やはり隠れた中心的機能を担っている。
 一方、柳人の身体に対する情熱は、まるで新種のアニマロイド(獣人)をつぎつぎ生み出すことに注がれているかにみえる。彼らは身体の破壊、継ぎ接ぎ、再生といったロボティズム的作業を、もったいぶった観念的意匠をまとうことなしに平然とおこなう。言ってみれば、川柳による身体性へのアプローチは、人文学的というよりむしろ工学的だ。
 この工学的指向こそ、川柳が芸術の言説によって捉えにくいことの一因だろう。しかしモロー博士の言うように、人間をつくりだすこと以上に芸術的なことはない。思えばSF作家ドゥルーズ=ガタリの試みも、来るべき時代の獣人創造という芸術的王道にあった。つまり彼らの言う強度とは、マッドサイエンスとしての川柳的狂度のことだったのだ。


  春風がばたばたと読むトルストイ   々々 
秋風が差異差異と憑くシニフィエ氏

  ソイラテと添い寝の距離が世界観   々々 
そばかすと懸巣がふれて虚数界

  黒板にヒポポタマスがいた昨日    々々 
昔日にかささぎを待つトイカメラ

  教室はいなくなるひとでいっぱい   々々 
秋の本棚並ぶはゐない人ばかり

  恋文を書いてるパンダはいいパンダ  々々 
毒のないきのこのやうに恋の人 
 
  真夜中を桃のかたちに切り開く    々々 
天誅を思へば桃のなまぬるく

  早漏の河童に会った銀座線      々々 
おほつぶの尻子玉おく草の花 
 
  雨の降る解答欄でおもいだす     々々 
霧ふかき恋の文書く教師かな

  メカニカル・マサオカシキと手をつなぐ 々々 
柿熟れてわたしと子規の最終話

  『月刊誌少年少女』(付録:脚)    々々 
付録まづ少女へうつす夜半の秋 

  バス停が盗まれていてさまよう日   々々 
満月やふはりと途中下車をして

  真夜中の Moominmammaの mの数  々々 
長き夜のMemento moriのmの襞

  くちびるを地図から拾う秋休み    々々 
くちびるは地図を奪はれ秋涼し

  たたずんだそのしゅんかんにかすめた阿 々々 
ゑのころ草帝国ここに与へられ

  額縁のなかでぞろぞろするつぼみ   々々 
宵闇はそぞろな耳を埋めたる

  人生のさんさんななびょばいおれんす 々々 
人生はやさしき担架曼珠沙華

  桜桃忌あなたは越えてばかりいる   々々 
小鳥来るここだけ冥き土となる

  各駅を網羅していくような虹     々々 
虹の栖む秋の駅舎は軋むなり

  いままでのすべてのうそをもらう吽(うん) 々々 
秋茄子のほんとは雲を掴むやう

  最後だけ違和感がある握りかた    々々 
だからいまこの手を離す羊雲

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