コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第40回
偶景
西原天気
飴赤しコンクリートの女医私室 三鬼(1950年)
なぜ飴などに目をくれるのか。その飴が赤いことに何の意味(句の意図)があるのか。
答えはなくて、たまたま、飴があり、飴が赤かった、ということだと思う。そこが女医の私室だったことにも句の成立根拠は見いだせない。
そのときの「たまたま」が句として書き留められた。そう思うことにする。
何も描いていない。「赤」は、句が描いたものではなく、飴が描いた色であり、景色だ(「コンクリート」は寒々としている。ここに若干の描写はあるが)。
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ところで、多くの俳句は、なんらかの作品意図を持っている。何かを描写する、何らかの心持ちを伝えるなどの意図。意図があれば、その完成形(表現としての十全、洗練を極めた先)がおそらくあり、句作はそこへと漸近していく作業となる。
読み手はどうだろう。その句がいかに巧みか、いかに不完全ではないかに目が行く。そうした「作家の仕事ぶり」を見極めたうえで、句を心に響かせたり、愛したりする。
ところが、そうした意図と描写と書きぶりと味わい方の外側で、妙に気になる句もまた存在する。「たまたま」の事物が「たまたま」書き留められたといった風情でそこにある句がむしろ「俳句の不思議お」として心に残ることがある。飴が赤いというこの句が、私にとって、まさにそう。
数多の佳句秀句(その良さを叙述しやすい成功例)は、言ってしまえば、その発生に予測がつく。読み(鑑賞)のニーズにかなって、生まれるべくして生まれた句とも言えよう。
予測できるもののもたらす快感には、限度がある。むしろ、そうした予測範囲から漏れる「偶景」の句こそが、俳句の不思議を蔵しているようも思えてくる。
(ただし、「偶景」の句と単なる報告の句がどう違うのか。そのへんは微妙で困難な問題として残るのではあるけれど)
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なお、この句には〈コンクリートの女医の私室に飴赤し〉というヴァージョン(異型)もある。〈女医の私室の〉といったまどろっこしさとは別に、これだと、飴へのズームインする視線の順序。掲句のように、まず飴の赤さに目が止まるほうが、「偶景」の要素は強い。
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