2016年2月2日火曜日

〔ためしがき〕 ビオトープとしての句集 福田若之

〔ためしがき〕
ビオトープとしての句集

福田若之

公準:言葉=植物的なもの。∵なにしろ「葉」である。

この認識に基づくなら、句集は育まれた植物的なものの群れであるということになるだろう。

けれど、それは田畑であってビオトープではない。ビオトープ(「生きる場所」≒すみか)を作り出すには、さらに、何らかの方法で動物的なもの(≠言葉)を導入する必要がある。

ある動物を意味する言葉は、それが単にある動物を意味している限りでは、やはり言葉だ。それは植物的なものだ。それは鷺草のようなものである。

動物的なものは、言葉ではないから、句集という環境に適していないように思われる。動物的なもののうちで、句集という環境に適応できるのは、言葉にうまく擬態するものに限られるだろう(ex.かまきり)。

動物的なもの=意味するとは別の仕方で、書かれてあるもの。言葉であるかにようにそこに書かれ、一見なにかを意味するかのようだけれど、実際には、単にそれ自体として現れているといった風なもの。「かまきり」が、言葉として、「言葉に似て非なるもの」を意味するのではなく、かまきりが、これ自体(「それ自体」ではなく)、言葉に似て非なるものなのである。ただし、こうしたありかたは、あくまでもそれを取り巻く植物的なものの上に成り立つ。

動物的なものが植物的なものの中に棲む、という構図。言葉に棲むという夢。だから、僕は動物的なものを書くことによって、言葉を否定したいのではない。

植物的なものは、生えているのであって棲んでいるのではない。だから、棲むということを表現するためには、動物的なものが不可欠になる。

かまきりは、しかしながら、植物的なものだけでは生きることができない(そうでなければ、かまきりはもはや「かまきり」という言葉に擬態することができなくなってしまう)。かまきりが句集に生息するためには、たとえば、ばったなどの動物もそこに棲んでいる必要があるだろう(象徴種を環境の中で育むためには、ほかの種も育む必要がある。その構造はセミラチスである≠植樹計画。ここで「セミラチス」という表現が「リゾーム」という表現よりも良いように思われるのは、とりわけ前者が都市計画に関する用語として定着しているからだ。問題なのは、居住環境=生息域をどう整えるかである)。

ばった:言葉に混ざり、言葉を脅かすことによって生きるもの。
このようなものを、たとえば「ばった」などの言葉に擬態させて句に書くことが必要になる。そして、そのとき、たとえば「(言葉を)脅かす」とはどういうことなのかを考える必要が生じる(それも、たとえば〈休日は君に遇えないばったの冬〉の「ばった」と矛盾がないように。たとえば、「かまきり」については、〈童話集かまきりがやわらかく踏む〉と矛盾なくできたように思う)。

では、土や水や、その他の非生物にあたるものは? →さしあたり、言葉には余白があればそれで充分に思われる。
バクテリア(分解者。小さいうえに土に隠れていて、目に見えるものではないかもしれないが、要するに忘却を引き起こすもの)、ミドリムシ(動物的であると同時に植物的なもの)、茸(それをどう位置づけたらいいのか、僕にはまだ分からない)についても、それぞれ考える必要があるかもしれない。

けれど、本当にこんな句集を編むつもりなのか? →わからない。想像が勝手にふくらんでいるだけかもしれない。けれど、こんな句集があったら、そこに棲みたいとは思う。

2016/1/3

0 件のコメント:

コメントを投稿