関悦史
空蝉の見つめる蝉の七日間 大塚迷路
「蝉の七日間」が何やら『風の谷のナウシカ』の「火の七日間」を連想させ、世界の終末か何かのようだが、実際セミにとってはこの七日間で生命は終わる。ただし句としては、それが儚いというまとめ方にはならず、終末観じみたものへと広がっていて、そのスケールの狂いがまず面白い。
だがこの句の主眼は、そこよりもむしろ「空蝉」「蝉」の自己の二重化と、その主客関係の逆転にある。ただの抜殻に過ぎない空蝉の方が中心となっており、実体感が強いのだ。
そこには諧謔の要素ももちろんあるのだが、観念による生死の逆転とか、自分のドッペルゲンガーを目にした者は死ぬという怪奇小説的な俗信に通じる味わいもあり、しかも、それがあからさまな虚構としてではなく、現実にその辺にある空蝉と蝉の関係からのみ引き出されているのである。
自分の抜殻に地上での全生涯を観察されていること(その七日間の存在論的むず痒さよ)をはたしてこの蝉は知っているのだろうかと思えば、置き去りにして忘れ去ってしまった自分の過去に復讐されているようでもあり、少々うすら寒い思いが湧いてくる。
そして蝉の七日間を見つめ終わった後の空蝉が送る、空虚きわまる時間がそれに続く。ドゥルーズのベケット論にあった「消尽したもの」を俳句化したらこうもなろうかという句。
句集『誰か居る』(2016.4 マルコボ.コム)所収。
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過分なる鑑賞、どうもありがとうございました。
返信削除静かに喜びました。