昼の郵便・夜のベンチプレス
西原天気
例によって、記事タイトルに意味はありません。さて、拾い読みます。
◆福田若之 利口であること、およびその哀愁についての試論 第19回松山俳句甲子園全国大会の一句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/08/19.html
《利口な睾丸を揺さぶれど桜桃忌 古田聡子》についての論考。
太宰治「桜桃」についてのやや詳しすぎる言及はさておき、〔睾丸-桜桃忌-サクランボ〕と、形状の相同を指摘、きちんと下品に読解した点、とてもナイス。
俳句甲子園の講評では、この点、どうだったのでしょうか。観ていた人、教えてください。
ただ、この句、私には意味(句意)がとれなくて、反応しにくい。かならずしも句意がわからなくてはいけないということではないのですが、こういう句で、句意が曖昧だと、なんだか無用にブンガク的な感じにも思え、それほど面白がれない。
◆如月和泉 川柳カード12号―筒井祥文と瀬戸夏子に触れて
『川柳カード』誌・最新号に、ふたつトピックを見出した記事。
ひとつは、《サバンナの象のうんこよ聞いてくれ 筒井祥文》という句。《サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘》の前半部分をそのまま引用(借用/盗用)した句。
「からだをはった一発芸」(荻原裕幸)。たしかに。
私は、アウト、と思うけど〔*1〕。
もうひとつは、瀬戸夏子「ヒエラルキーが存在するなら/としても」。
ヒエラルキーとは、
小説―現代詩―短歌/俳句―川柳
というもの。
手元に『川柳カード』第12号があるので、そちらに直接あたりながら。
「ほとんどの人はうすうすはそう思っていて(…)」(瀬戸)等、多くの当事者がこの「ヒエラルキー」を信じているという前提なのですが、困った、いや、ほとほと困った、私には、ぜんぜん思い当たるところがない。
この5つのジャンルが、同じひとつの社会/カテゴリーを形成しているのでもないのに「ヒエラルキー」と言われても困るし、じゃあ、マンガは? 「売上げ、認知度」(瀬戸)では最上位ですけど?
と、そんなことより、〔小説―現代詩―短歌/俳句―川柳〕といった序列・階層を、思ったこともないし、これを感じるような場面に遭遇したこともない。
だから、私としては、きょとんとするしかないのですが、記事中、根拠というかエピソードが示してあります。
(…)どうして作家や詩人は、あるいは小説や詩を研究している学者は、短歌や俳句の話をするときあんなにも偉そうなのか。知らなくても当然だという態度を平然ととるのか。なんであんなくだらない小説を書く作家やどうしようもない詩を書く詩人に上から目線で接されなければいけなんだ? (…)数えきれないくらいそんな場面に遭遇した。(瀬戸)
なるほど。これ、ひょっとして、「ヒエラルキー」は、しょうもない作家や詩人の中にだけにある、という話では?
あるいは、短歌、俳句、川柳の一部に、卑下があるだけでは?〔*2〕
実感のない私には、そうも思えるのですが?
なお、「数えきれないくらいそんな場面に遭遇した」瀬戸氏と違って、遭遇したことのない私は、単にラッキーなだけかもしれません。けれども、このさきも、その幸運に恵まれて暮らしていく自信があります。出かける場所/読むものは選べるし、もしも、そんな場面に遭遇しても、「しょうもないヒエラルキー信者」を無視できる/鼻で嗤えるくらいは歳をとってしまったので。
一方、川柳人である如月和泉は、この「ヒエラルキー」をさらになまなましく捉える。
それでは、上位のジャンルから軽視された表現者が下位のジャンルに接するときには、どのような態度をとるのだろうか。私の経験では、上位ジャンルから受けた屈辱を下位のジャンルに向かって晴らすような態度をとる人が多い。
ううむ、これはもうまるっきり一般社会の引き写しですね。
ここで思い当たるのは「上位」とか「下位」とかは、カテゴリーの話ではなくて、人それぞれの話、行動原理の話かもしれないということ。つまり、「上位」「下位」といった序列・ポジションの考え方に染まっているか(上を見たり下を見たり、忙しいことです)、染まっていないか、その差、その話ではないかと。
ちなみに、これを言ってはおしまいなのだけど、どのジャンルにも、わずかだけが放つ輝きと、凡百のつまらなさが併存する。どちらを見て暮らすがいいのか。言うまでもないでしょう。
*
今回は、そんなところで。
またいつか、ここでお会いしましょう
〔*1〕ちなみに、寺山修司の翻案も、アウトという見解。
〔*2〕当該の場面に遭遇したことがないと言ったが、ひとつ、関連事項を思い出しました。俳句外部の人(学者や文学者)が俳句に言及するのを、ありがたがる傾向が、俳人にはあるようです。たいしたことを言っているわけではないのに、とてもありがたがる。ただ、これは卑下というより、ただ単に、うれしいのだと思います。ひとつには、かまってほしい。外国人による日本論・日本人論がよく読まれるのと似ています、もうひとつには、俳句関係者にはマイナー意識があるので、著名人に弱い。このあたりは、階層というより、勝手に卑屈なだけのようです。
拙文をとりあげていただいてありがたいのですが、こっちだけ読まれる方がいるかもしれないのでひとつだけ補足しておくと、本文で「あたかも」「かのように」を強調したとおり、僕の読みの主眼はそこにはありません。たぶん、天気さんもそこは承知で書いていらっしゃるとは思うのですが、念のため。
返信削除さて、コメントを書こうと思ったのは、本当は、そのことを確認したかったではなくて、「ヒエラルキー」問題に関して、僕が以前書いたものが関連するように思ったからです。
◆福田若之 〔ためしがき〕寺山修司にとっての川柳
http://hw02.blogspot.jp/2015/03/blog-post_31.html
要するに、「小説―現代詩」と「短歌/俳句」のあいだに芸術としての優劣をつけようとした例として桑原武夫がおり、「短歌/俳句」と「川柳」のあいだに芸術としての優劣をつけようとした例として若いころの寺山修司がいるということです。両者を組み合わせると、「小説―現代詩―短歌/俳句―川柳」の図式が完成します。こんなふうにジャンルを格付けすることが正しい態度だとは僕もまったく思いませんが、こうした見方が歴史的に存在することは確かなことのように思います。
この記事だけ読んで、リンク先を読まない、というのは、〔拾読〕としては困ったことです。
返信削除みなさん、元記事、かならず、読んでネ♡
この〔拾読〕は、美味しいところだけ拾う/あるいはきわめて私的な事情へと展開する、ってことですから。
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ヒエラルキーの話。
桑原武夫は如月和泉さんの元記事に出てきます(リンク先を読むの大事)。
寺山修司のその参照記事、思い出した。寺山修司の一面を活写。(読んでいない人は、読んでネ♡)
伝統や社会的拘束はあるんだろうけれど、というところで、「私の事情」を書きました。瀬戸夏子さんも如月和泉さんも個人的見解・個人的出来事をもっぱらに反応している記事ですし。
天気さん
返信削除返信ありがとうございます。
>桑原武夫は如月和泉さんの元記事に出てきます(リンク先を読むの大事)。
はい。「リンク先を読むの大事」というのはその通りで、もちろん読んでます。それで、あっ、これはつながる、と自分の書いたものを思い出した次第(そのへんの思い出しの過程は書く必要ないかと思って、はしょってしまいました。すみません)。