2016年10月12日水曜日

●水曜日の一句〔山本敏幸〕関悦史


関悦史









白梅は完全犯罪である  山本敏幸


直観的に言いきった句で、読者としても瞬時に深く説得されるか、逆にわからないとなれば、どう考えても鑑賞の扉が開かないという作りである。その取りつく島のなさ自体が密室性を帯びてくるあたりも「完全犯罪」的であるといえる。

この句、「白梅」が完全犯罪のあったしるしや手がかりであるわけではない。「白梅」そのものが「完全犯罪」なのである。これを暗喩的に取ってしまえば話は簡単で、「白梅はあたかも完全犯罪のように完全性を持っていて犯罪的に美しい」とでもいったことになるし、じっさいそう取る余地があるからこそ読めるという読者もいるはずだが、このようにパラフレーズしたのでは、句から消えてしまうものがある。

口語調の「は~である」がそう思わせる当のものだが、断言していることが必ずしも重要であるわけではなく「~であろう」などの推量に変えても、事態はあまり変わらない。とはいうものの、断定されていることによって、この句はそっくり命題と化すように見えてくる。つまり、真であるか偽であるかが判定可能な平叙文となり、偽であった場合は「白梅は完全犯罪ではない」と判定しうる可能性も出てくるのだが、しかし、一見命題のように見えながら、じつのところこの言明の真偽を明らかにする手段はない。「白梅」が何ものかの犯行であるということが、そもそもナンセンスだからである。

かくしてこの句は命題に見えてそうではなく、真偽の判定の彼方に去るというか、むしろ反対に読者へと迫ってきて、適切な距離を取ることを不可能にしてしまう。その意味では禅の公案にも似ているが、この句が目指しているのはもちろん禅的な指導要綱と化すことではない。また造化のすべてが、人間にとっては解けない謎や奇跡だということをいっているわけでもない。

「白梅」が「完全犯罪」であるという世界律が、われわれの住む世界をひっくり返す異物として不意に立ち現れる。その衝撃がこの句の詩的内実であり、その辺に咲く現物の白梅は、現物として愛でられる余地を保ったまま、その足がかりに変えられてしまう。

「白梅」の向こう側にいかなる世界が構築されているのかは、われわれにうかがい知ることはできない。それが「完全犯罪」であるということである。


句集『断片以前』(2016.8 山河俳句会)所収。

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