関悦史
降る雪の無量のひとつひとつ見ゆ 正木ゆう子
きりもなく降ってくる雪に見入る時、はじめはその全景が漠然と意識され、やがてひとつひとつの雪の動きを目が追うようになり、他の雪との動きや遠近のずれに身心が同調し始める。そのさなかにも雪は際限なく降ってくる。「無量のひとつひとつ見ゆ」とはそうした事態を指していると、ひとまず取ることができる。
「降る雪の無量のひとつひとつ」に人の世の無常やそのなかの自分といったことを観想することも無論できるのだが、この句はそうした一般論的な感慨や情趣に接近しながら、必ずしもそればかりに終始するわけではない。「見る」ならば能動性が際立つが、「見ゆ」はどちらかといえば受動的で、この視点人物は無量のひとつひとつとして立ち現われる雪という状況に巻き込まれつつ、それを視認するばかりである。
いわばこの句の感動や発見は、無量の雪のなかから「ひとつひとつ」が個別に見え始めたという点にかかっている。この「無量」の無限性と「ひとつひとつ」の個別性が同時に立ち現われていることが眩暈を誘うのだが、最後が「見ゆ」としめられている点、没入しているわけではなく、局外の視点にとどまってはいる。
スケールの違いが同時に見えてしまうこと、それによって自分の立ち位置が明晰なまま曖昧になること、この句のものがなしいような情感はそうした「降る雪」によって空無化される身体から来ているのである。「~ひとつひとつかな」でも「~ひとつひとつなり」でもない「~ひとつひとつ見ゆ」は、そのような空無化される身体に対応している。
句集『羽羽』(2016.9 春秋社)所収。
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