墓碑銘は風にうすらぐ
福田若之
大林桂「青春のかたみ――遺句集『散木』を頂点とした福永耕二論」は、ひとつの優れた論考だった。だからこそ、僕は、次の文言に対して、率直に驚かずにはいられなかった――「〔……〕しかし福永耕二がどのような俳人であったのかは知られていないように思うので、まずは耕二の経歴に触れておきたい」。
ひと昔前までは、これに続く福永耕二についての記述は、決して正確に暗唱できるようなものではないにせよ、ある程度知られていたことがらだったのではないだろうか。少なくとも、彼が鹿児島の生まれで、早くから「馬酔木」において頭角を現し、「沖」においても活躍したが、病により若くして世を去った、ということぐらいは、よく知られていたはずだ。そして、その『鳥語』や『踏歌』といった句集の名もまた、それらの情報と同様によく認知されていたはずだ。その頃、福永耕二の経歴について多くが語られなかったのは、きっと、みんなが彼のことをそれなりに知っていたからだったはずだ。
けれど、時代は移り変わる。語られず、書かれないことがらは、少しずつ、うすらいでいく。僕が言いたいのは、「青春のかたみ」から上に引用した一節は、おそらく福永耕二という作家の受容の変化を印づける重要な記述だろうということだ。 境涯俳句という主題のもとで論を展開していくうえでも不可欠であったに違いないその経歴の記述は、しかしながら、論のうえでの必要によってではなく、「知られていないように思う」という、おそらくは正当な、ひとつの現状認識によって呼び寄せられている。それは、福永耕二について誰もが知っているふうであった時代がもはや過去のものであることを明確に印づけ、かつ、僕らの生きる時代がその忘却の上に進んでいることを告げる言葉にほかならない。今日、僕らがはじめなおすのはこの認識からでしかありえないのだ。墓碑銘は風にうすらぐ。僕もまた、福永耕二が「新宿ははるかなる墓碑」と言葉を紡いだ1978年には今の都庁はまだ影もかたちもなかったのだということを知ったときには、驚きを禁じえなかった(都庁新庁舎の完成は1990年の12月で、僕が生まれるおよそ半年前のことだ)。あのコクーンタワーが建ってからの新宿しか知らない子どもたちは、はたして、「はるかなる墓碑」ということばを「新宿」の喩えとしてふさわしいものに感じるだろうか。
2016/10/31
誤植を修正しました。
返信削除誤:「〔……〕これに続く福永耕治についての記述は〔……〕」
正:「〔……〕これに続く福永耕二についての記述は〔……〕」