2017年6月7日水曜日

●水曜日の一句〔高石直幸〕関悦史


関悦史









無量大数越えて矜羯羅去年今年  高石直幸


「無量大数」まではまだ耳に馴染みがあるが、「矜羯羅(こんがら)」もここでは不動明王の従者の矜羯羅童子ではなく、数の単位を指すらしい。「越えて」の一語があるおかげで、知らなくともこれが数にかかわるらしいと見当はつく。ネットで何ヶ所か検索してみると華厳経が出典で、正確な数値にはさほどの意味もないだろうが、10の112乗になるという。人のとうてい把握しきれない数であり、カントのいう数学的無限による「崇高」に達している。

「去年今年」と抽象的巨大さとの句といえば高浜虚子の《去年今年貫く棒の如きもの》が浮かぶ。この「矜羯羅」の句もそのヴァリエーションと取れるが、虚子の句においては抽象的な巨大さを持つ流れが人に接し、人が触知できる一部分のみに限定されて捉えられ、その前後は茫々たる遠さのなかに霞んでいるのにくらべ、「矜羯羅」の方は相当な遠距離まで認識だけはされている。虚子の句が、果てのしれない長さをもつ大蛇の胴体に不意に触れたかのような感触を帯びているのに対し、こちらは星空を見上げつつ、自分の存在の微小さを開放感とともに味わっているような趣きがあるのだ。

ただしその数量的無限も「矜羯羅」なる宗教味を帯びた語が用いられると、ただの抽象ではなく、あるキャラクター性を帯びてくる。この言葉は元のサンスクリット語では召使、奴僕を意味するらしいので、そこまで読み込んでしまった場合、この句の語り手にも、法理にしたがう順良さがまつわることにもなってくる。

しかしそこまではあえて踏み込まず、国宝級の伽藍の類を一観光客の目で見て悠久の時の流れに思いをはせているといったようなごく卑近な感懐を、年の変わり目と巨大な数の単位から引き出したというくらいの軽い受け止め方にとどめたほうが、「無量大数」も「矜羯羅」もかえって利く気がする。


句集『素数』(2017.5 文學の森)所収。

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