2017年6月6日火曜日

〔ためしがき〕 偏見 福田若之

〔ためしがき〕
偏見

福田若之


ツイッターをどう思うかについて正直に書くなら、僕は、システムとして、リツイートも「いいね」もフォローもミュートもブロックも好きになれない。そして、なにより、そこに書かれた言葉のいっさいを《つぶやき》に還元してしまう、名称の神話作用(と考えていいと思う)が、好きになれない。だから、僕に、そうしたことから来るツイッターに対しての偏見があるのではないかと訊かれたら、おそらくあるだろう、と答えざるをえない。

たぶん、僕は「おしゃべり」にほとんど肯定的な価値を見出すことができないでいるのだ。ただし、「おしゃべり」という語の選択は的確ではないかもしれない。僕がここでひとまず「おしゃべり」という語に意味させたいと考えているのは、誰かに聞かれることを欲望しておきながら、それにもかかわらず、もし聞き手が誰ひとりとしてその言葉とまともにかかわりあいにならなかったとしても一向に差し支えない、そうした発話のことだ(逆に考えれば、僕は、他のひとに読まれることをもはや欲望しないもの、かつ/または、もし読み手が現れるならばそのときにはまともにかかわりあいになってもらわないと差し支えのあるものを、書きたいのだろう)。ツイッターというのは、僕には、基本的に「おしゃべり」のために用意された場に思えてならないのである。システムやそこでの用語がまさしく「おしゃべり」に最適化されているように見えるのだ。

けれど、認めよう。これは、おそらく、僕のごく個人的な偏見にほかならない。

2017/5/28

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