2017年7月4日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉9 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉9

福田若之


あくまでも個人的な経験としてだが、句会で、当日に句を持ち寄るという場合、句会場に着いたときにはまだ持ち寄ることになっている数の句が手元に揃っていないというひとを見ることも、決して少なくはない。ふと思ったのだが、もしかすると、これは、歌人が聞いたら卒倒するようなことなんじゃないだろうか(あるいは、俳人も?)。だが、これを一概にそうした俳人のだらしなさと捉えるべきではないだろう。

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伝統的な句会の文化においても、席題や吟行といったかたちで、参加者を即興的なでっちあげ=思いつきinventionへと駆り立てる要素が組み込まれていた。俳人は、句を揃えずに句会に行くことに驚くほど馴れている。

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あるひとびとは、自らの発明的なひらめきが、手ぶらで句会に行くことで生じることを経験的に知っている。こうしたひとびとにとって、句会とは火事場にほかならない。でっちあげ=思いつきを強制する火のなかへ自らを投じることで、こうしたひとびとは自らの莫迦力を発動させるのである。

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このところ、寝不足のせいか、日中、下瞼がびくびく痙攣するのを感じる。ところが、鏡で確認してみると、動いては見えない。要するに、それは僕以外のひとびとにとっては極めて微細な動きでしかなかったというわけだ。なんて滑稽なんだろう。僕は、僕の寝不足を周囲のひとたちに最もあからさまに示すのは、この下瞼の痙攣に違いないと信じていたのだ。だから、僕はいまでは、僕の寝不足はおそらく誰にも知られていないだろうと信じている。

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すこし前になるけれど、あるひとから初めてメールをいただいたとき、宛名のあとの最初の一文が「突然の失礼します」となっていて、この「失礼します」は本当に「突然」だなぁと感じ入った。「突然のメール失礼します」という「メール」は、「メール」という語に自己言及性があるけれど、「突然の失礼します」では、「メール」という語の「突然」の不在によって、「失礼します」という述部に自己言及性がずらされている。このずれのありようが実に「突然」にもたらされている。この書き出しの一文は、素敵だと思った。

2017/6/24

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