関悦史
山国の深雪にゆらぐ御燈明 横山康夫
見えているのは仏壇か神棚の「御燈明」だけだろう。そのゆらぎの周りは暗く、さらに家の外には「深雪」の「山国」が広がる。そちらは気配として、あるいは認識としてあるだけだが、それら全てを集約するものとして「御燈明」はゆらいでいる。
「山国」の「山」といい、「深雪」の「深」といい、自然の闇への畏怖を強調する言葉で、ほとんど芝居がかりなまでに、一句が絵として出来過ぎている気がしなくもない。ことに「山国」は、そうでない地域との差を知っていることを窺わせるので、句の語り手が必ずしもそこでの暮らしに埋没しきっているわけではないという醒めた距離感を併せ持っているようにも感じられる。
しかし、これはその土地の歴史、風土と精神性を負って、そこで暮らす者の目か、それとも外部からたまたま訪れた者の観光客的に物珍しがる目かということになると、後者にしては、この御燈明は少々板につきすぎているようだ。山と雪の大質量のなかに暮らしてきた代々の先祖たちの営みそのもののようにして御燈明はゆらぐ。ゆらぐだけであり、それは何も語らない。それが死者の在り方であり、その御燈明に見入る者も、その時、醒めたままでありながら、代々の霊のひとつとなっている。
「山国」や「深雪」といった知覚による把握が、「御燈明」の想像力に浸透されて深化するあたり、バシュラールの『蠟燭の焔』の俳句版のようでもある。
句集『往還』(2017.7 書肆麒麟)所収。
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