2017年7月11日火曜日

〔ためしがき〕 読み書きをめぐっての、相異なる二つの欲動 福田若之

〔ためしがき〕
読み書きをめぐっての、相異なる二つの欲動

福田若之


家の本棚の奥に偕成社文庫版の『海底二万里』(大友徳明訳、偕成社、1999年)の上巻と中巻がある。小学校の頃に買ったものだ。下巻はない。決して出版されていなかったというわけではなく、読みとおす前に飽きてしまったというわけだ。というかそもそも、最初から読みきれる気がしていなかった。なにしろ、「二万里」だ。世界じゅうの海を旅するノーチラス号の航路は、小学生の僕には、想像するだにあまりにも長すぎた。無数の知らない海洋生物の種名がいっこうにイメージを結ぶことのないまま延々と列挙される文体も、僕を退屈させた。上巻を読みはじめながら、僕は、すでにしてこう思っていたように思う――いったい、いつになったら終わるのか?

短い読みものが好きだった。僕が小学校のころに読みとおすことのできたいわゆる文学作品はたった二冊、やはり偕成社文庫版のH・G・ウェルズの『タイムマシン』(雨澤泰訳、偕成社、1998年)と、斎藤博之が絵を入れていた古い講談社青い鳥文庫版の夏目漱石の『坊っちゃん』(講談社、1983年)だけだった。中学校に入るまでは、ミヒャエル・エンデの『モモ』(大島かおり訳、岩波書店、1976年)さえ読破できなかったのだ。そのころ、僕が多く読んだのは、落語の小噺をむかしばなし風の文体に書きなおしたものやいわゆる学校の怪談などを集めた絵入りの本だった。たしか、その多くはポプラ社から出版されていたように思う。

いつだったかいわゆる「サンタクロースからのプレゼント」としてもらった学研の『読み・書き・話す故事・ことわざ辞典』(学習研究社、1999年)も、そのころの僕の愛読書のひとつだった。もらったときは、サンタクロースにまで勉強しなさいと言われているようでがっかりしたものだったけれど、それを読むことは喜びに満ちていた。ことわざそのものの短さはもちろん、その由来となったたとえ話や歴史上のできごとについて短くそのあらすじが語られているありようが、僕の性にあっていたのだろう。その後、中学校に入ってから、朝のホームルームの時間に十分か十五分の読書が義務付けられるようになったとき、父の書斎からひっぱりだされたのは、小学校時代以来の小噺に対する興味の延長線上にあった古典落語を収めた文庫本と、星新一のショートショートの群れだった。そうだ、芥川も忘れてはいけない。それは母の実家のどこかにあった古い新潮文庫版の『羅生門・鼻』(新潮社、1968年)だった。

いまにして思えば、僕が俳句に引き寄せられたのも、結局は、ひとえにこうした短いものを読むことのよろこびによることだったのかもしれない。短いものを読むことのよろこびは、短いものを書くことのよろこびとなり、そうしたものを書きつづけることへのあこがれとなった。

けれど、最近になって、僕には、どうやら、もうひとつ、一見するとまったく正反対の欲動があるらしいということがわかってきた。どういうことかというと、短いものを見ると、僕は、それをどこまでもどこまでも接ぎ木して引き延ばしてしまいたいという衝動に駆られるのだ(俳句の書き手としてはほとんど致命的だ)。

たとえば、ここに一句あるとしよう。この一句からつづけて、さらに何文字、何ページ書くことができるだろうか。このとき、僕の関心はもはやその句をめぐってどれだけ長く書き継ぐことができるかということにしかない。句評は、もちろん依頼に応じて書く場合もありうるし、そうした場合には、たいてい字数なり枚数なりについてあらかじめ指定があるものだ。けれど、そうではなく自分で好き勝手に書く場合、なによりも、その句から読まれることをどれだけ引き延ばしつづけながら書くことができるかということに思いが向いてしまうのである。

そのときは、もう、ただひたすら書き継ぎたいのだ。かくして、一字一字が、ひとつ残らず、僕のよろこびに加担する。一句は、そのとき、すくなくとも可能性としてはどこまでも長くなりうるだろう。そんなふうにして、いつか、長い長い句を書いてみたいものだ。長い長い句というのは、《凡そ天下に去來程の小さき墓に參りけり》(高濱虛子)といった程度のものではなくて、むしろ、プルーストの『失われた時を求めて』とか、ああいう長さの句を書いてみたいものだと思うのである。実際、僕は生まれてこのかた、ずっと、最初の産声からはじまって、いまこのときの一呼吸一呼吸にいたるまでの僕の生のいっさいの痕跡として、一句一句ではなく、たった一句を書きつづけてきているのではないかと思うことがある。《待遠しき俳句は我や四季の國》(三橋敏雄)。見かけ上は切れている一句一句は、そうしたたった一句に包含されて、まさしく僕自身のライフ・ワーク(一生の仕事、あるいは、生としての作品)たるその長い長い句のほんの一部を構成しているにすぎないのではないか。僕は、ときどき、そんな夢想に浸ることがある。

2017/7/11

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