2017年11月21日火曜日

〔ためしがき〕 「ありとあらゆらない」のこと 福田若之

〔ためしがき〕
「ありとあらゆらない」のこと

福田若之


『自生地』(東京四季出版、2017年)に、次の句がある。

ひきがえるありとあらゆらない君だ 福田若之

「ありとあらゆらない」 は、もちろん、今日では連体詞として扱われる「あらゆる」の強調された連語「ありとあらゆる」を、あたかもラ行五段活用の動詞であるかのように活用して、助動詞「ない」とつなげたものだ。

もちろん、今日、一般的には「あらゆる」はそもそも用言として扱われることはない。だから、これは文法に対するあからさまな違反なのだが、もうひとつ、書いておきたいことがある。

そもそも、今日、連体詞として扱われる「あらゆる」は連語だった。それはラ行変格活用の動詞「あり」の未然形と助動詞「ゆ」の連体形の組み合わせだったのである。「あらゆるもの」が「ありうるすべてのもの」という意味になるのは、「ゆ」の可能をあらわす用法による。

「ゆ」は上代の助動詞で、平安時代にはすでに一般的ではなくなっていた。たとえば、「見ゆ」、「聞こゆ」などはその名残りで、もともと「聞かゆ」だったのが変化して一語になったものだそうだ。

いま、「見ゆ」、「聞こゆ」という例をあげたが、これらの動詞は、いずれもヤ行下二段活用だ。そして、このことは助動詞「ゆ」の活用に由来している。助動詞「ゆ」の活用形は下二段型だったのだ。したがって、語源に即して考えるならば、「ありとあらゆる」にあえて「ない」をつけるなら、「ありとあらえない」になるはずだということになる。

しかし、僕の身についた言葉で書くなら、ここはどうしたって「ありとあらゆらない」となるところだ。「ありとあらえない」なんて、まったく笑えない。そんなふうにしたら、変なものでも食べてしまったみたいな気分になるだろう。それは、ひとえにいわゆる「現代語」の活用として、下二段活用がもはや一般的ではないからかもしれない。「見ゆ」は「見える」に、「聞こゆ」は「聞こえる」になってしまった。「見える」の連体形は「見える」、「聞こえる」の連体形は「聞こえる」であって、それは「あらゆる」とはかたちが違っている。 

あえて説明するならこんなところだろうか。

けれど、ひとつ大事なことを付け足しておくなら、文法というのは、そのつど、生きた言葉を前にした驚きにもとづく、その後付けの説明として成立するもののはずだ。

たとえば、「ゆ」には可能の用法がある、とか、その活用形は下二段型だ、とか、「ゆる」は「ゆ」の連体形だ、などというもろもろの説明は、そう書いた僕自身を少なからず苛立たせる。

言葉はたんにひとつながりにそのつどそう書かれたにすぎないのであって、「ゆ」がそれとして生の言葉だったころには、「可能の用法」などという概念も、「活用形」だの「下二段型」だの「連体形」だのという概念も、それどころか、「助動詞」という概念すら、なかったはずだ。これらの概念は、まさしく文法学こそが自らのために発明したものではなかっただろうか。「ゆ」は、これらの概念がなくとも、おのずからそのような言葉として苔むしていたのだ。一般化としての文法は、言葉のこの苔むしてある感じをどうしてもいくらか捉えそこねる。そこには、それをこそ捉えようとする努力によって決定的にそれが捉えそこねられるといった不幸がある。優れた文法学者たちはもちろんそのことをよく承知しているし、ときには繰り返し、この点に注意をうながしている。

思うに、言葉の苔むしてある感じに関わる文法なき文法は、決して美しいものではない。それは「美しい日本語」なる想像物の建立に与するあの一般化としての文法ではない。文法なき文法あるいは文法以前の文法、それは僕たちにとってはむしろ崇高なものだ。それについて語る言葉を、僕はまだ充分に手にしてはいないし、おそらく決して満足なものを手に入れることはないだろう。ただそれでも、僕は、文法学の発明せざるをえなかったもろもろの言葉を前にしたときの自分自身に対する苛立ちを、そうやすやすとなかったことにするわけにもいかない。というのも、僕が母語で書くとき、そこに期待する文法とは、ただ、この文法なき文法なのだから。
2017/11/21

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