『俳句年鑑2018年度版』をめぐるざわつき
西原天気
『俳句年鑑』を読む、ということを、むかし『週刊俳句』でやったことがあります。上田信治との対話形式。
『俳句年鑑2008年版』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/20081.html
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/20082.html
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/12/20083.html
『俳句年鑑2009年版』を読む
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/12/2009.html
もう10年前なんですね。
これ以降、記事がないのは、あるとき、ベテラン女流俳人から、「あんなもの、読んで、なんになるの?」というカジュアルな感想をいただいたことがきっかけです。「そういえば、不毛かも」と、私は真摯に受け止めて、それで、もうやらなくなったわけです。「住所録として便利」以上の意味は、少なくとも批評という点では、ない。そういう判断。実際には、取り上げて意義のある「巻頭提言」もあったように思うのですが、とにかく、信治さんと私とではやらなくなった。
それはそれとして、このところ、SNS等でほんのちょっとだけざわついていましてね、それは『俳句年鑑2018年版』の「40代・男性俳人」の項(櫂未知子)をめぐって。
ざわつきの要旨は、数名の作家が「わからない」で片付けられていること。
でもね、わからないものはわからないわけですし、書き手の櫂未知子氏も、
さんざん調べた、読んだ。でもわからない。私には氏の作品を論ずる資格がないようだ。(田島健一に関する箇所)と書いている。「資格がない」と潔く認めています。
問題は、わからないとしか書きようのない作家を、「論ずる資格」のない書き手が取り上げねばならないという、その事情です。
書き手(櫂)にとって誠実な態度とは、一連の「わからない」作家を取り上げないことです。
ところが、そうも行かない。世代ごとの主要作家の顔ぶれがなんとなく決まっているから。
このことのほうが問題、という捉え方もできそうですよ。
取り上げる作家の陣容とそれぞれの発表句は、編集部から手渡されるらしい(伝聞です。書き手自身が資料を集めることもするのだろう)。
世代別の記事で取り上げられる作家の陣容は、書き手が変われば変わっていくのが自然かもしれない。ところが、そうはならない。
こうして「俳壇」(カギ括弧付き)が固定化されていく。
「わからない」で片付ける書き手・櫂未知子の書きぶりにざわつく以前に、それによって垣間見られる「俳壇」の固定化、俳句情況の退屈な生態(静態)をこそ、語らなければならないのではないですか。
「あんなもの、読んで、なんになるの?」という10年近く前の助言は正しかったのかもしれないなあ、と振り返りつつ、今年もあとわずか。
みなさま、良い年をお迎えください。
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