〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド1
福田若之・編
愛とはベルの音、その電話(Patti Smith, "Because The Night", 日本語訳は引用者による)
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待機とは魔法にかけられたような状態なのだ。動くなかれという命令を与えられているのである。たとえば電話を待っている状態は、打ちあけがたいものまで含めて、こまごまとした無数の禁止から織りなされている。部屋を出ることも、手洗いに行くことも、電話を使うことさえも(線をふさがぬため)できないのだ。関係のない人から電話がかかってくるのをおそれる(同じ理由で)。もうすぐ出かけなければならぬのだが、それでは、この心を癒してくれるはずのよびだしに、「母親」の帰還に、応ずることができないかもしれない。そう思うとこの心は千々に乱れる。このようにわたしの心をそらせるものは、すべて、待機にとっては失われた時間であり、不純な苦悩というものであろう。純粋な待機の苦悩とは、たとえば、電話に手のとどくところでなにもせずにすわっているということだからである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』、三好郁朗訳、みすず書房、1980年、60-61頁、太字は原文では傍点)
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祖母はこれから私をしたいようにさせてくれようとしているけれども、そんなことに彼女が賛成するとは夢にも思っていなかったので、私には不意にその自由が、まるで祖母の死後にやってくる自由(私はまだ祖母を愛しているのに、祖母の方は永久に私を見放してしまうときの自由)と同じくらいに悲しいものに思われた。「お祖母さん、お祖母さん」と私は叫んだ。できれば彼女にキスをしたい。でも私のそばには、この声しかない。たぶん祖母の死後に私を訪ねてやってくるあの亡霊と同じように、手にふれることもできない幻影の声だ。「さあ、なにか言ってよ」。だがそのときに声は急に聞こえなくなって、いっそう私をひとりぼっちにしてしまった。祖母にはもう、こちらの声が聞こえていないのだ。祖母と私の通話は切れてしまった。私たちはもう、互いに相手の声を聞きながら向きあっている存在ではなくなった。それでも私は闇のなかを手探りで祖母の名を呼びつづけ、私を呼ぶ祖母の声もきっとどこかにさ迷っているにちがいない、と感じた。
(マルセル・プルースト『失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントの方I』、鈴木道彦訳、集英社、2006年、270-272頁)
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電話は、たしかに工学的には多重電信の発展形として、それまでの電信技術の延長線上に誕生したものではあったが、社会的な効果という点では電信とは根本的に異なる契機を内包させていた。というのも、電信の場合、どれほど離れた地点まで瞬時に情報が伝えられるとしても、そこで電送されるのは交換手によってコード化された信号である。ところが電話の場合、はじめて人間の声そのものの送信を可能にしたのだ。受話器を手にする人物は、自分の声がそのまま遠くの相手まで瞬時に達し、また相手の声もこちらに達するように感じる。電話においてわれわれの身体は、一九世紀が生みだしつつあった電子メディアの威力に直接むかいあうことになるのである。
(吉見俊哉『「声」の資本主義――電話・ラジオ・蓄音機の社会史』、河出書房新社、2012年、122-123頁)
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エレクトロニクスの時代は、「二次的な声の文化」、つまり、電話、ラジオ、テレビによって形成される声の文化の時代でもあります。
(ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』、桜井直文ほか訳、藤原書店、1991年、8-9頁)
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