2018年2月27日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド9 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド9

福田若之・編


ここでは「流暢な日本語」で「奉天‐福岡間」の開通式の祝辞が述べられたという点が、電話というメディアの性格を考える上で重要である。電話は発話による同時的なメッセージを耳元で交換するため、通訳が介在する余地がない。「流暢な日本語」で満州‐日本間で会話のやりとりがなされたことは、日本人にとって満州が声によって「つながる場所」にあり、かつ、日本語が利用される影響圏にあることを認識させただろう。しかも、対話相手は本来の母語ではないはずの日本語を利用しているのである。
(白戸健一郎『満州電信電話株式会社――そのメディア史的研究』、創元社、2016年、154頁)



手紙を書くというささやかな満足さえ、われわれには与えられていなかった。事実、一方で、この町はもう通常の交通手段では国内の他の部分と連絡できなくなっていたが、さらにまた、あらたな布告によって、手紙が病毒の媒介となることを防ぐために、いっさいの信書の交換を禁止されてしまったのである。初めのころは、特権的な地位にある二、三の人々は、市の出口で衛兵所の歩哨を抱きこんで、外部への音信を通させてもらうことができた。それもしかし、病疫の初期の、衛兵たちも同情の衝動に負けてしまうことを自然なことと心得ていた時期だけのことであった。しかし、しばらく時がたって、同じ衛兵たちが事態の重大さを十分のみこんでしまうと、その結果がどこまで及ぶか予想もできない、そういう責任をとることを拒むようになった。初め許されていた市外電話も、そのため公衆電話と回線の非常な混雑を引起すに至って、数日間全面的に停止され、次いで、死亡、出生、結婚というような、いわゆる緊急な場合だけに厳重に制限されることになった。そこで、電報がわれわれに残された唯一の手段であった。
(アルベール・カミュ『ペスト』、宮崎嶺雄訳、新潮社、1969年、79-80頁)



国際通話の接続が最近まで交換手によって処理されていたのは、電話料金の振り分けといった技術的な問題もさることながら、既存設備のきりかえに要する莫大な費用にかんがみての判断である。電話番号案内や各種電報のとりつぎがいまだ交換手によるのは、技術水準の限界に規定されてのためといえる。
 交換システムの改式には、右ふたつの問題のいずれか、あるいは両者同時の克服が必須となる。このことを念頭において、いまいちど確認しておこう。通話交換システムにおいて交換手とはいったいどのような存在であったのか?
 単刀直入にいうと、それはじつに矛盾した存在だった。すなわち、手動交換システムにおいて二者間の通話にかかすことのできない中継者たる機能をになうが、同時に確実で迅速な通信の完了という電話の使命達成にたいする障害ともなりうる。交換手はみずからが意識するとしないとにかかわらず、通話そのものを遅らせたり、ときには顧客のプライバシーにさえも干渉した。
(松田裕之『電話時代を拓いた女たち――交換手のアメリカ史』、日本経済評論社、1998年、229-230頁。ただし、ルビは煩雑になるため省略した)


今や電話は家庭に一台どころか、携帯電話の普及により一人に一台という時代になっている。しかし、戦後の電話事情は、電話を引きたくても設備が追いつかず、架設までに長い時間待たされた。その積滞の解消と全国ダイヤル即時通話の実現が戦後の電話事業の大きな課題であった。それらが実現したのは、一九七〇年代に入ってからで、全国即時通話が実現したのは一九七九(昭和五四)年のことであった。
(星名定雄『情報と通信の文化史』、法政大学出版局、2006年、414頁)

2018/1/6

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