白猫がにゃあと
西原天気
著名人の訃報が相次ぎました。金子兜太(2月20日逝去)、大杉漣(2月21日逝去)、左とん平(2月24日逝去)。
金子兜太は句集『両神』(1995年)、ライブ感溢れるこの句集を当時とても好いていたことを思い出します。
白猫にやーと鳴けば厠の僧驚く 兜太
大杉漣はテレビ東京『バイプレイヤーズ~もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら』を楽しみに観ていたので驚きました(同番組ロケ中の変調だそうです)。
左とん平は、名曲「ヘイ・ユウ・ブルース」(1973年)を貼っておきます。
世の中、擂り鉢だよ、人生は擂り粉木なんだよ♪(作詞郷伍郎)
じつに。
それにしてもバックトラックが素晴らしい。
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追悼に水を差すようですが、大作家が亡くなると、かならず「巨星堕つ」とか言っちゃう媒体や人。新人の登場には「彗星のごとく現れ」(彗星のごとく消えるとはなぜか言わない)。紋切り型はしかたないとしても、これが口をついて出る媒体/人は、誰かなにかの表現について「陳腐」とか「使い古された」とか評したりしないことです。「どの口が言ってるのか」になっちゃいますから。
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このところよく目にする若者ことば(?)が「エモい」。エモーショナル(感情的)というだけでなく、なんらかのニュアンスが加わったっぽい。よく理解できないままに、そういえば、『オルガン』第12号(2018年2月3日)の「対談・外山一機×福田若之」は、エモい対話だなあ、と思いました。
両氏とも評論等、示唆的ではあるが、あまりに迂遠(迂遠の質は違いますが)との印象を抱くことが多い。この対談も、対象/テーマの周りを腕組みしたままぐるぐる歩き続けるかんじで、ちょっといらいらする。そこに魅力的なものがあるなら飛びかかって、押し倒せばいいのに(エモいならぬエロい喩えです、オッサン臭くてすみません)、魅力的でないなら無視すればいいのに、語って有意義なのかそうじゃないのか判然としないテーマを前に、1メートル離れた円周を腕組みしたままぐるぐるぐるぐる。
ただ、このとき感じてしまう距離、持ってまわった感じは、彼らの知性というより、「エモさ」が作り出す距離や態度なのではないかと思い始めました。
福田若之をエモいというのはわかるにしても(『自生地』はエモい句集です)、外山一機はどうなのか?と訝る向きもございましょうが、外山の批評の根源(ラディカル)性は、とてもエモいと思っています。
まあ、これはもっとていねいに論じるべきで、片言ではいけないのですが、許してちょんまげ(昭和的にお茶を濁す)。
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本日はこれから句会。梅を観に行きます。
二もとの梅に遅速を愛す哉 蕪村
それではみなさま、健やかにお過ごしください。
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