2018年4月3日火曜日

〔ためしがき〕 恍惚 福田若之

〔ためしがき〕
恍惚

福田若之

恍惚――取り合わせがもたらすもののうちで、僕にとって最も貴重に感じられるものはこれだ。二つ以上の事物の出会いが、それだけで一種の恍惚をもたらす場合がある。

俳句の取り合わせがもたらす詩情は、一般的には、二つの事物のぶつかりあいの衝撃の強弱によると考えられている。ところが、恍惚はそうした衝撃の強弱とはほとんど相関性がない。衝撃の強弱は、おそらく、イメージ同士の観念的な隔たりの具合――いわゆる「つかずはなれず」といった類のそれ――によってたやすく説明することができるだろう。だが、恍惚についてはそうした距離感によってはほとんど説明することができない。

たとえば、《この秋は何で年よる雲に鳥》という芭蕉の句を読むときに僕を恍惚とさせるのは、「雲に鳥」という一言のうちでの、雲と鳥とのあっけらかんとした取り合わせなのである。「この秋は何で年よる」という感慨は、僕には、その恍惚に達するために架けられた梯子のようなものにすぎないのではないかとさえ感じられる。僕をこの恍惚まで引きあげたのはたしかにあの「この秋は何で年よる」という感慨であったはずなのに、気が付くと、僕はひたすら「雲に鳥」というこの二つのもののありきたりなはずの出会いに恍惚としているのだ。

もしかすると、恍惚は距離感の喪失そのものとかかわりがあるのかもしれない。恍惚が本質的に理不尽なものであると思われるのは、きっとこのことと無縁ではない。

2018/3/30

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