2018年4月10日火曜日

〔ためしがき〕 樋口師匠とスピノザ 福田若之

〔ためしがき〕
樋口師匠とスピノザ

福田若之

ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズが図書館の本を50年のあいだ借りっぱなしにしていたという話があった。樋口師匠も、それほどまでではないが、なかなか本を返さないひとである。

樋口師匠というのは、森見登美彦の小説の登場人物で、『四畳半神話体系』には「師匠は私から借りた本を返さないのみならず、図書館から借りた本も返さない」と書かれている(森見登美彦『四畳半神話大系』、角川書店、2008年、107頁)。さて、樋口師匠のこんな言葉がある。
「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」
(同前、150-151頁)
この言葉のことがふと気にかかって、ひさしぶりに読み返してみると、ああこのひとの言うことはなんだかスピノザっぽいなと感じた。樋口師匠のこの言葉を大学生である語り手が聞くことになる世界で、語り手は樋口師匠の弟子をしている。その弟子がこんなことを言う。
「僕がいかに学生生活を無駄にしてきたか、気づいたのです。自分の可能性というものをもっとちゃんと考えるべきだった。僕は一回生のころに選択を誤ったんです。次こそ好機を掴んで、別の人生へ脱出しなければ」
(同前、150頁)
先に引用したのは、この弟子のことをたしなめる樋口師匠の言葉であった。師匠はさらに弟子に問う。
「君はバニーガールになれるか? パイロットになれるか? 大工になれるか? 海を股にかける海賊になれるか? ルーブル美術館の所蔵品を狙う世紀の大怪盗になれるか? スーパーコンピューターの開発者になれるか?」
(同前、151頁)
「なれません」と弟子が答えると、樋口師匠は葉巻を弟子に勧めて、こう言うのだった。
「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっしりかまえておれ」
(同前、151頁)
樋口師匠は、ひとびとの存在は可能性ではなく不可能性によって規定されているという。それは、逆にいえば、あるひとが今ここに存在しているありようこそがそのひとにとっての必然であるということだ。 可能性は当てにならない。不可能性こそが確かなものなのだ。だから、可能性に望みを託すことは悪いことだ。そう樋口師匠は主張する。

ここで『エチカ』をひらいてみよう。スピノザはこんなふうに述べている。
物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。
(第1部、定理33。以下、『エチカ』からの引用はすべて畠中尚志訳(上下巻、岩波書店、1951年初版、1975年改版)による)
つまり、一切の物は今ここにあるようにしかありえなかったというのである。これは、樋口師匠が弟子に対して「今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない」と言っていることと重なり合う。

さて、スピノザはいま引用した定理をもとに、偶然や可能という言葉が何を語るものであるかを考察する。
ある物が必然と呼ばれるのは、その物の本質ないし定義からか、それとも原因に関してかである。何となれば、ある物の存在は、その物の本質ないし定義からか、それとも与えられた起成原因から必然的に生起するからである。 次に、ある物が不可能と呼ばれるのも、やはり同様の理由からである。すなわちその物の本質ないし定義が矛盾を含むか、それともそうした物を産出するように決定された何の外的原因も存在しないからである。これに反して、ある物が偶然と呼ばれるのは、我々の認識の欠陥に関連してのみであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない。すなわち、その本質が矛盾を含むことを我々が知らないような物、あるいはその物が何の矛盾も含まないことを我々がよく知っていてもその原因の秩序が我々に分からないためにその物の本質について何ごとも確実に主張しえないような物、そうした物は我々に必然であるとも不可能であるとも思われないので、したがってそうした物を我々は偶然とか可能とか呼ぶのである。
(第1部、定理33、備考1)
ひとが何かを偶然とか可能とか呼ぶのは、たんにその物が必然なのか不可能なのかを判断する材料が欠けているからでしかない。スピノザにとって、一切は必然であるか、そうでなければ不可能なのだ。樋口師匠の言う「我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」とは、要するにこのことではなかったか。

ところで、スピノザは善と悪について、それぞれ次のように定義している。「とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する」(第4部、定義1。太字は原文では傍点)。「これに反して、とは、我々がある善を所有するのに妨げとなることを我々が確知するもの、と解する」(第4部、定義2。太字は原文では傍点) 。それゆえ、彼は、まず悪について、こう述べる。
いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはできない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。
(第4部、定理30)
善については、次のとおりだ。
物は我々の本性と一致する限り必然的に善である。
(第4部、定理31)
そして、このことからスピノザはひとつの帰結を導く。
この帰結として、物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ我々にとって有益あるいは善であり、また逆に物は我々にとってより有益であるに従って我々の本性とそれだけ多く一致する、ということになる。
(第4部、定理31、系。太字は原文では傍点)。
関連して、スピノザは次のとおり述べてもいた。
そこで私は以下において、善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が確知するものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が確知するものであると解するであろう。さらに我々は、人間がこの型により多くあるいはより少なく近づく限りにおいて、その人間をより完全あるいはより不完全と呼ぶであろう。というのは、私が「ある人がより小なる完全性からより大なる完全性へ移る、あるいは反対により大なる完全性からより小なる完全性へ移る」と言う場合、それは「彼が一つの本質ないし形相から他の本質ないし形相に変化する」という意味で言っているのではなく(なぜなら例えば馬が人間に変化するならそれは昆虫に変化した場合と同様に馬ではなくなってしまうから)、単に「彼の活動能力――彼の本性を活動能力と解する限りにおいて――が増大しあるいは減少すると考えられる」という意味で言っているのであって、この点は特に注意しなければならぬ。(第4部、序言)
馬が人間になってしまったら、それはもはや馬ではないとスピノザは言う。とすれば、人間になることは端的に馬の本性に反したことであろう。同様に、樋口師匠は「いわゆる薔薇色の学生生活」というものは「バニーガール」や「海賊」や「大怪盗」になることと同じくらい彼の弟子の本性を外れたことであると考えているように見える。ところで、「いわゆる薔薇色の学生生活」が、仮に彼の弟子が自らの本性に一致するのを妨げるものであるとすれば、それは彼の弟子にとって悪であるということになりはしないか。

こうして、スピノザにおいては直接的に結びついているわけではないように見えるふたつのことがらが、樋口師匠においては直接的に結びつくことになるだろう。「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない」。可能性という言葉を無限定に使うこと、それはその人物が自らの本性に一致するのを妨げることである。だから、こうした可能性を信じることは樋口師匠にとって端的に悪なのだ。すなわち、「我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ」。

可能性に望みを託すこと、それは希望を抱くことにほかならないだろう。スピノザに言わせれば、「希望および恐怖の感情はそれ自体では善ではありえない」(第4部、定理47、太字は原文では傍点)。希望と恐怖が対になっているのには理由がある。それは、定義からして対称の関係にあるのだ。希望の定義はこうである。
希望とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生まれる不確かな喜びである。
(第3部、諸感情の定義12。太字は原文では傍点)
これに対して、恐怖は次のとおり定義される。
恐怖とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生まれる不確かな悲しみである。
(第3部、諸感情の定義13。太字は原文では傍点)
そして、「これらの定義からして、恐怖なき希望もないし希望なき恐怖もないということになる」(第3部、諸感情の定義12および13、説明)。なぜか。

なぜなら、いま確認した定義からして、ひとは、ある可能性に希望を抱くとき、別の可能性に恐怖を抱いているのである。たとえば、樋口師匠の弟子が「僕は一回生のころに選択を誤ったんです。次こそ好機を掴んで、別の人生へ脱出しなければ」と言うとき、この弟子は別の人生へ脱出することに希望を抱くとともに、別の人生へ脱出できないかもしれないことに恐怖を抱いている。

恐怖のない希望はなく、また、恐怖は一種の悲しみであるとすれば、希望にはつねに悲しみが付きまとっていることになる。すなわち、「希望および恐怖の感情は悲しみを伴うことなしに存しえない」(第4部、定理47、証明)。

それにしても、喜びや悲しみとは何だろうか。スピノザはそれらを次のとおり定義している。「喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行することである」(第3部、諸感情の定義1。太字は原文では傍点)。さらに、「悲しみとは人間がより大なる完全性からより小なる完全性へ移行することである」(第3部、諸感情の定義2。太字は原文では傍点)。先に引用した『エチカ』第4部の序言の一節に言う「ある人がより小なる完全性からより大なる完全性へ移る、あるいは反対により大なる完全性からより小なる完全性へ移る」というのは喜びや悲しみのことだったのである。確認したとおり、スピノザにとって、ある人間がより完全であるとはより人間本性の型に近いということであり、より不完全であるとはより人間本性の型から遠いということであった。

先に見たとおり、スピノザにおいて、善悪は本性に基づいて判断される。したがって、スピノザにとっては、前述の定義からしても必然的に、喜びと悲しみはそれぞれ善悪と密接な関連をもつ感情ということになる。「善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない」(第4部、定理8)。また、「喜びは直接的には悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である」(第4部、定理41。太字は原文では傍点)。だから、悲しみをともなう希望はそれ自体では善ではありえない。

それゆえ、スピノザもまた、できるかぎり希望に依存しないで生きることを勧めているのである。すなわち、「だから我々が理性の導きに従って生活することにより多くつとめるにつれて我々は希望にあまり依存しないように、また恐怖から解放されるように、またできるだけ運命を支配し・我々の行動を理性の確実な指示に従って律するようにそれだけ多く務める」(第4部、定理47、備考)。

以上で、樋口師匠の言葉を僕がなんだかスピノザっぽいと感じた理由はおおむね示せたのではないかと思う。すなわち、両者の言っていることが厳密には違っているとしても、似ていると感じさせるだけの理由はおおむね示せたのではないかと思う。



さて、ここで興味深いのは、『四畳半神話体系』がパラレル・ワールドを扱った小説であるという点だ。この点で、『四畳半神話体系』の世界は決してスピノザ的ではなく、むしろライプニッツ的な発想に結びついているのである。それぞれの世界で、主人公はそれぞれに異なる生を送っている。彼が樋口師匠の弟子となるのは、そのうちのひとつの世界においてのことにすぎない。それでは、こうしたパラレル・ワールドの存在は、作中において、樋口師匠の思想を根本から覆してしまうものなのだろうか。

決してそうではない。まず注目するべきは、どの世界でも主人公はどうやら「いわゆる薔薇色の学生生活」などというものを満喫しているわけではなさそうだということである。それはやはり彼の本性に反するものだったということだろうか。「我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」のだという樋口師匠の主張は、まずはこの意味において、作中において正当なものとして受け取られるだろう。

だが、考えてみれば、樋口師匠の弟子である彼、その世界における彼は、どれだけ似ていようと、ほかのどの世界における彼でもない。だから、「今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない」という言葉は、もっと根本的なことを言っているものとして理解することもできる。もしかすると、この言葉には、ライプニッツ的な可能世界論とスピノザの必然論とのあいだでの、ひとつの妥協点を見ることができるのかもしれない。複数のパラレルな世界の、個別の必然というものがある。それゆえに、今ここにあるひとりの人物は、他の世界の同じ人物にさえ、なることができない。樋口師匠は、パラレル・ワールドを可能性としてではなしに捉える仕方を示唆している。それによれば、隣の世界はこの世界の別の可能性ではない。あるのはただ、それぞれの世界における必然でしかないのだ。

2018/4/10

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