〔週末俳句〕
ではない十分
大塚凱
土日を使って東京から京都へ遊びに行くような人もいるのだから、いっそ、海外に行ってもいいと思った。金曜の深夜羽田発、月曜朝成田着の飛行機を予約し、台湾に向かう。1泊3日の弾丸旅行だが、京都で休日を過ごすよりも安上がりだろう。
瑞芳という駅から平溪線に乗って暫くすると、河が見えた。抹茶に少しのミルクを掻き混ぜたようなその河を遡ってゆく。やがて鉄道は、忽然と並び立つ商店の群へ分け入りながら減速した。そこが十分(Jiufeng)だ。
駅に降りると、小さな商店が単軌すれすれに営まれていることがよくわかる。観光客は線路の上に立ち、その隙間の空へとランタンを放つ。台湾内外で有名なランタンフェスティバルの開催地に近いことから、この街では気球の要領で大きな紙製のランタンを放つことが出来るのだ。ランタンの色も様々。黄色は金運、赤色は健康にかかわるという。筆で願いを書くこともできる。日本人カップルがお互いの名前を記し、桃色のランタンに永遠の愛を願っている。それはもはや、願うというよりも、誓うという行為に限りなく漸近していた。裏を返せば、共同のアリバイ作りのようなものだ。誰も傷つかないための幸福なアリバイ工作、それが「共同作業」の本質に思える。やがて自分の披露宴で純白のケーキに刃物を振り下ろすことがあるのだとしたら、僕はそんな考えを忘れてしまうのだろうか。
線路上から放たれたランタンは風に乗り、小さな山へと向かう。ランタンが山を越えてゆくところを見ると、なんだか願いが叶うような気がしてくるものだ。しかし、じっくり眺めていると、その多くは山の手前、酷いものでは駅から川向こう、橋を渡ったにすぎない近さで墜落する。ランタンの価格は、駅近くの店でおよそ150元~200元(日本円で600円くらい)、150mほど離れた人気のまばらな場所では50元というところもあった。たった150m離れただけで、一気に商店の活気は落ち、ランタンもみすぼらしく見えてしまう。事実、やはり高い店の方がランタンの造りや燃料もしっかりとしているようには見受けられる。常に観光客がいるのは、駅前のごく一部だけだ。
吊橋を渡ってしばらく歩くと、もう観光客は見当たらない。対岸から駅を眺めると、その周辺だけが風景の中で異質に感じられる。橋を渡れば、そこは山間部に住む人々の生活の場である。余所者と交わることのない空間。ただ時折、火の消えたランタンが墜落する。路地裏の黒猫をかわいがっていたら、じきに墜ちそうなランタンを見つけた。それは左右に揺れ動きながら、僕へ近づくほどに落ちる速度を早めてゆく。やがて道路のど真ん中に墜ちた。車がその紙屑を避けて通ってゆく。見かねてランタンを道端に寄せると、そこには書いてあるのはハングルだった。なんと書いてあるかはわからない。でもきっと、彼はこの世の中に存在し、たまたま僕と同じ瞬間に十分を訪れ、そして確かに願いを込めたはずなのだ。
十分に居る間、いくつものランタンが風に導かれてゆくのを眺めた。やがて、ランタンに書いた願いは叶うのだろうか。梢や道端でぐちゃぐちゃになったランタンを見ていると、願うという行為すら馬鹿馬鹿しく思えてくる。眺めていてわかることはひとつ。この町では、より高価なランタンほど、あの山を越えてゆく。
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