〔ためしがき〕
真に望んだ自らの作品が受賞を逃したときに言えること
福田若之
せっかくだから、笑ってしまうくらい具体的に書こう。
第9回田中裕明賞は、小野あらた『毫』(ふらんす堂、2017年)に決定した。もう10年以上のあいだ切磋琢磨してきた友人である彼の受賞を、とてもめでたく思う。2018年版の『俳誌要覧』の座談会でも話したことだけれど、僕もまた『毫』を句集として魅力的だと感じている。だから、その『毫』がこうして賞に輝いたことを、ひとりの読者として祝いたいとも思う。
たしかに、『自生地』(東京四季出版、2017年)は、結果として、受賞を逃したということになる。とはいえ、『自生地』はやはりどこまでも僕自身の望んだ作品にほかならない。どれだけ世界を繰り返しても、僕はやはりこの時代に生きてこの句集がこう結晶することを望んだだろう。そして、それゆえに、どれだけ世界を繰り返しても、僕はきっと第9回田中裕明賞の受賞とは無縁でありつづけるだろう。とすれば、 僕は、『自生地』が結晶することを望むことによって、結果的に同賞を受賞しないことを望んだのだ。
自分が望んだ結果になったのだから、いったい何を悔しがることがあるだろう。第9回田中裕明賞に『自生地』を応募したとき、僕にとっての大事なことは、『自生地』が結晶することを望むことによって、自分が結果的に同賞を受賞することを望んだことになるのか、それとも受賞しないことを望んだことになるのかをはっきりさせることにあった。そして、今夜、それがわかった。このことは僕自身にとって喜ばしいことだ。なぜなら、僕が賞に自ら応募したということは、僕はまさしくそれを知りたいと望んだに違いないのだから。僕がいかにして同賞を受賞しないことを望んだのかは、おそらく、今後、選考会の過程が公開にされることによってあきらかになることだろう。それもまた楽しみだ。一切に、あらためて感謝したい。
2018/5/4
0 件のコメント:
コメントを投稿