〔ためしがき〕
音韻論の西へ
福田若之
詩における反復の重視がいかに効果的であるとはいえ、音の織物はたんに数量面での工夫に尽きるわけではけっしてない。一回だけ、ただし主要な語や適切な位置に、対照的な背景をもってあらわれる音素が、きわだって重要になることもある。
(ロマン・ヤコブソン「言語学と詩学」、桑野隆訳、ロマン・ヤコブソン『ヤコブソン・セレクション』、桑野隆、朝妻恵理子編訳、平凡社、2015年、225頁。)
個別の句についての音韻論的な分析はいまや巷にあふれかえっているが(それらはかならずしも文献ではなく、むしろ句会などにおいてなされている)、それらは、しばしば、こうした視点を欠いているように思われることがある。
たとえば、《みづうみのみなとのなつのみじかけれ》の音韻について語る者は、おそらく誰でも「み」の頭韻のことを言う。続けようとすれば、さらにn音やt音に話題を移すことになるだろう。そのとき興味深く思われてくるのは、数のことだけで言えば、印象的なm音よりもn音のほうがずっと多いということだろう。なにしろ、「の」だけでも「み」に肩を並べるのだ。しかし、さらにその先には、一句を断つために表れたかに思えるr音と、それを導入するためのものとも思えるk音の唐突な出現といったことを、やはり念頭に置く必要があるはずだ。そこには、裕明自身の意図がはたらいたというよりも、むしろ、そもそも彼の書く日本語がそのようにできていた、とでもいうような趣がある。
俳句における反復に対して音韻論的な観点から捉えることが充分に浸透している今日となっては、もはや、誰にでも分かる頭韻や脚韻を指摘することはたんなる前提の確認にすぎなくなってしまっている。喩えるなら、それは音韻論の東海岸にすぎない。もっとも厳密な意味での音韻論に徹しようとすれば、おそらく、最終的にはいっさいの統計的な測定を捨てて、また、文字による助けを捨てて、鍛えあげられた耳だけを頼りにするような立場に身を置かざるをえないだろう。だが、俳句についてそのように語ることは、すくなくとも今日、ほとんど不可能なことに思われる。だが、それゆえに、そこには夢があるのかもしれない。
2018/9/25
0 件のコメント:
コメントを投稿