2018年12月10日月曜日

●月曜日の一句〔岡田一実〕相子智恵



相子智恵






暗渠より開渠へ落葉浮き届く  岡田一実

句集『記憶における沼とその他の在処』(青磁社 2018.8)所収

「暗渠」の対義語は「開渠」なのだな、と耳慣れない言葉をしばらく頭の中で転がしているうちに、この二つの言葉が生まれた順番が気になってきた。おそらく暗渠の方が先にできたのではないか。

きっと昔は「水路」や「用水路」という言葉で足りていた。技術的に考えてもそれは「開渠」の状態が当たり前だったろうから、水路と開渠を区別する必要はない。そこから都市の整備が進み、「暗渠」が作られるようになって初めて、それに対応する「開渠」という言葉も生まれた……のではないだろうか。調べていないから、ただの憶測だけれど。

掲句は暗渠が途切れて外へ出た水路に、落葉がパッと浮いて流れてきた一瞬を捉えた。それだけを見ればまことに鮮やかな写生句である。けれども暗渠と開渠が並べられたことで、この落葉が来た距離と時間の道筋の長さを感じないわけにはいかない。

木の葉は、閉じた暗渠に落ちることはできない。だからこの落葉は、川や水路(開渠)に落ちて→暗渠→開渠と浮いて流れ着いたことがわかる。しかもただ流れ着いたのではなく〈届く〉という言葉が選ばれている。それによって「暗渠の向こうから水面に差し出された落葉が、無事に浮いたままこちら側に届きましたよ。その一瞬を、通りすがりの私は見届けましたよ」という誰にでもないつぶやきが(あえて言えば葉を落とした木に向けたつぶやきが)一句になっているのではないか。

川や用水路の水面が空と接していた、暗渠とも開渠とも無縁だったかつて都市の記憶という“時間的な距離”。木の葉が落ちた場所から暗渠を通ってきた“空間的な距離”。一枚の落葉は、暗渠と開渠という言葉によって、その距離を経た一枚の手紙のように浮いて届く。それを静かに感じ取り、受け取っている人がいる。きわめて日常的な都会の風景の中に、一瞬の小さな奇跡があるのだ。

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