小津夜景
行商
俳句を始めて二年になる頃、句集を作ってみたくなった。
とりあえず二、三の出版社に連絡し、ソフトカバー二百頁の本の見積もりを出してもらう。すると思ったより高い。それで百六十頁で再度出してもらったところ、今度は妥当な金額になった。
よし。これならきっと大丈夫。私は句集五百冊分に相当する製作費を、銀行から丸ごと借りることにした。返済は毎月。期間は四年である。
十ヶ月後、完成した句集が届いた。僕の机の下に置くといいよ。僕は食卓テーブルで仕事するからと夫が言った。そうなのだ。よく考えてみたら、一間暮らしの我が家には、句集を保管する場所などなかったのである。
それからまた数ヶ月経ったある日のこと。仕事から帰ってきて、ベランダの窓ガラスを拭いていると、夫の机の下を占領している句集の山がふと頭に浮かんだ。
と、その瞬間、その山を売ってみたくなった。
この、句集を売ろうと思った瞬間のフィーリングは、それを作ろうと思った瞬間よりはるかに純粋かつ直感的だった。つまり私は、なんのためでもなく、ただ売買という行為をしてみたくなったのだ。だから「何の経歴も人脈もない上に、フランスにいる自分がどうやって売るのか。書店に出向くことも、実物を見せることもできないのに」といった疑問は思いつかなかった。
はじめて句集が売れた時のことはよく覚えている。それが記念すべき第一通目の営業メールだったからだ。ご出版おめでとうございます。綺麗ですね。うちでも一冊扱わせてください――ご主人からの返信はこの上なくシンプルだった。なんて素敵な手紙だろう! それからは句集が売れるたびに「あのね、今度はこの本屋さんが買ってくれたよ」と、食卓テーブルで仕事をする夫に書店の写真を見せた。すると夫は、すごいねえ、よかったねえ、とにっこりするのだった。
その後、週刊俳句の著者インタビューを受けた時、聞き手の西原天気さんが教えてくれたのが鴨居羊子『私は驢馬に乗って下着を売りにゆきたい』(ちくま文庫)である。ひらいてみると、ある日急に思い立って新聞社をやめた著者が下着の会社「チュニック」を立ち上げ、ペンと紙で夢あふれる作品を描き続けて、日本の女性下着業界に一大革命を起こすまでの物語だった。もっとも著者の資質は少しも起業家ではない。もの作りが好きで、わがままで、しかも臆病だ。会社の成功とひきかえに多くのものを失いもする。ただ絵を描いている時だけは、わずか一坪の会社を立ち上げた頃のように自由であると感じていて、その気持ちをこんな風に綴っている。
絵を描くときは、瞬時にして現実の刻や現実の世界はなくなった。/そこには長く細い野道を、花を摘んで歩む無声映画のような刻のない世界があった。あわただしい仕事を抜けてカンバスへ向うと、瞬時にそこに菜の花やれんげ畠がひろがるのが私にはうれしかった。私は描ききれない夢想をよく夢想した。/私がいまほしいのは、近代的なビルディングでも何百坪の合理的なオフィスでもない。/海と野原に囲まれた工場で、できたての商品をロバで運んでいる自分の妙な姿だった。一頭の驢馬でゆく、片田舎の行商。たしかに自由とはかくも意気揚々で、かつ端からみると不恰好なものに違いない。そして、だからこそ素敵なのである。自ら俳句を書き、それをまとめた一冊を手ずから売るとき胸にこみ上げる、生産者/生産物/流通の感動的な三位一体感。思わず泣けちゃうような。一度ものを作ってみて、そして売ってみて、良かった。私はそう思った。
句集は刊行から十ヶ月で三刷となった。
句集の印税。田中裕明賞の賞金。出版を契機として入るようになった原稿料。そしてこの手で売った分の収入。これらを全部足して、私は四年のはずの借金を結局一年で完済した。
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