小津夜景
じぶんのさいはて
あまり本を読まずに生きてきた。
とくに30歳からの10年間は、1冊も新しい本を読まなかった。じゃあ20代のころはというと、これもからっきしで、大学時代も年に5冊読んだか読まないかくらい。
なぜこんなにも読まなかったのか。表向きの理由は体力がないからで、本音のところはセンスが悪く本をえらぶのが苦手だったからだ。あと、たいへん我が弱く人の言いなりになるのが好き、といった性格も原因している。そんなわけで自分は、人に勧められて読む、というのを最適の読書法としてきた。
こんな事情と関係していたかどうかは不明だけれど、子供のころはかなり本をもらった。ピークは14歳から15歳にかけてで、英語教師がカルヴィーノ『まっぷたつの子爵』『冬の夜ひとりの旅人が』をくれ、数学教師が『ポー詩集』、E・エンデ『鏡の中の鏡』をくれ、国語教師がリード『芸術の意味』、益田勝実『火山列島の思想』、フロム『愛するということ』をくれ、美術教師が中原佑介『ブランクーシ』をくれ、主治医がシュタイナー『アカシャ年代記』、ソシュール『一般言語学講義』をくれた。どう考えてももらいすぎである。しかも完読できたのは『ブランクーシ』一冊のみだったので、周囲からの本責めがすっかり怖くなってしまった。読めもしないのにこんなにもらってどうしよう。うーん。そうだ、本を交換したことにすれば少しは気が楽になるかも。そう思った私はエゴン・シーレの画集をお返しに配り、それでいくぶんほっとしたのだった。
またあるとき、気分が良かったので高校に行くと、国語教師に職員室に呼ばれ、イザベラ・バード『日本奥地紀行』(東洋文庫)を「これあげる」と渡されたことがあった。
「わあ、かっこいい本。なにが書いてあるんですか?」
「タイトルそのまんま。この本の作者はとても身体が弱かったんです。それで、あなたの参考になるかもと思って持ってきました」
ありがとうございますと言って、先生の前で本をひらく。著者はヴィクトリア朝の女性旅行家らしい。そしてこの本は、明治初期に日本を訪れた著者が、通訳兼従者の日本人青年を連れ、東京から日光、新潟を経て東北地方を縦断し、ついにはアイヌの住む北海道までをつぶさに見て回った記録とのことだった。
一八七八年(明治十一年)四月に、以前にも健康回復の手段として効き目のあった外国旅行をすることを勧められたので、私は日本を訪れてみようと思った。それは、日本の気候がすばらしく良いという評判に魅かれたからではなく、日本には新奇な興味をいつまでも感じさせるものが特に多くて、健康になりたいと願う孤独な旅人の心を慰め、身体をいやすのに役立つものがきっとあるだろうと考えたからである。この序文にもあるように、彼女は幼少期から病弱で、わざわざ北米で転地療養するほどだったのだが、それが元で旅することをおぼえ、オーストラリア、ニュージーランド、サンドイッチ諸島(ハワイ)、日本、マレー半島、カシミール、チベット、インド(パキスタン)、ペルシャ、朝鮮、中国、モロッコなど世界中を巡るようになった。なんてやりたい放題の人生! でもさ、そんなにお金があって体力がないなら、もう少し楽ちんな場所を旅したほうがよくない? 死ぬよ?
それで、次に高校に行った日に、先生のところへ出向いて、なんで彼女はあんな辺境ばかり旅してたんでしょうね、と呟いてみた。すると先生は、
「人生がいつどこで終わっても、自分自身の最果てで死んだと感じられるようにじゃないかな。流浪の果ての死というのも、かっこいいよね」
と真顔で言った。
「ふうん。ロマンチックですね」
「……ごめん。いま俺、てきとうに言った。いや、実は正直に言ったんだけど。忘れて」
「あはは。そうだ、今日はお土産があるんでした」
私はイザベラ・バードのお礼ですと言って、マチスの画集を鞄から出すと先生に差し出した。先生は一瞬ためらったのち、どうもありがとう、と言って画集を受け取った。
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