2019年3月9日土曜日

●土曜日の読書〔釣りと同じように素晴らしいこと〕小津夜景




小津夜景







釣りと同じように素晴らしいこと


日曜日、朝市へゆくと、壊レタ目覚マシ時計売リマス、と書かれた小さな看板が立っていた。

看板の脇には、丸い椅子に腰かける男性が一人。その足元にはダンボールが一箱。目があったので、こんにちはとあいさつし、ダンボール箱をひょいとのぞくと、古びた目覚まし時計が2、30個、おもちゃみたいにごったがえしている。

「これ、全部壊れているんですか?」
「ええ。どれも50セントです。おひとついかがでしょう?」

目覚まし時計を3つ購入して家に戻る。さっそく時計の表面に消しゴムをかけて黒ずみを落とし、文字盤のふちを爪楊枝で念入りに掃除して、仕上げにアルコールで拭く。そしてテーブルの上に3つの時計と、日頃使っているブラウンの目覚まし時計を並べ、合計4つの時計の針のうごきを見比べる。だんだん針がずれてくる。ふむ。やっぱり壊れてるね。すっかり満足した私は台所でコーヒーを淹れ、お盆にカップとワッフルを載せて居間に戻った。4つの時計は完全にばらばらの時間を指していた。

口の端をカップに寄せて、ふと思う。4つの異なる時間に囲まれながらコーヒーを飲むというのは、一種の瞑想的リクリエーションかもしれない、と。この言い回しは私の造語ではない。故事伝承・随想・歌を織り交ぜつつ釣りの悦楽とその技術とを指南したアイザック・ウォルトン釣魚大全』(平凡社ライブラリーほか)の副題が「瞑想的人間のリクリエーション」というのだ。「釣りの聖書」と称されるこの本はのんびりとした時間の流れが持ち味で、釣師・猟師・鷹匠が自分の趣味を大いに自慢しあう第一章は、こんなにも素朴な語り口ではじまる。
 第一章 道楽三家
釣師 お二人とも、まずはお早よう。やっと追いついたところですよ。あまりにも快適な五月晴れの朝だもんで、お二人がウェアのほうへ歩いて行くのを見て、急いでこのトッテナム坂を登ってきたのですよ。
猟師 これはこれは。ちょうどいいとろへお見えになりました。わたしはホズデンの「わらぶき屋」で一杯朝酒をひっかけようと思っていたんです。それに、向うには友人達が待っているので、休まずに行こうとしていたのです。ところで、わたしと一緒にいるこの且那は、たったいま道連れになったばかりでどこまで行かれるのかも聞いてなかったくらいですょ。
鷹匠 お差しつかえなければテオボルドまでご一緒させていただいて、そこでお別れしようと思います。じつは毛変り時の鷹を預けてある友人の所へ寄り道して、一刻も早くその鷹の様子を観察したいのです。
釣師 しかし、せっかくの上天気に、こうして三人が道連れになったのもなにかの縁。わたしとしては自分の予定はさておいて、お二人と一緒に旅をすることを楽しみにしていますよ。
だがこうした遊興の香りは、『釣魚大全』が刊行された1653年において安息日のあらゆるリクリエーションが法律で禁じられていたことを思えば、ウォルトンの義憤の表れに違いない。彼はジェイムス1世の「遊戯教書」が国家的罪悪として糾弾され、焚書攻撃にあったのをその目で見ていたし、さらに釣魚は当時たいへん卑しい行為とされてもいた。こうした数々の社会的風潮に真っ向から対立しつつ、ウォルトンは探究心や根気、待つことの修練の果てにひろがる釣りの世界の醍醐味を、「瞑想的人間のリクリエーション」としてその文体込みで説こうとしたのである。

ところでこの「瞑想性」という観念は、ものを書くときにも大切な心がまえだ。いったい「瞑想性」とは何か? それは論理にも共感にも頼らずに、つまり読み手を覚醒させたり酩酊させたりする技から遠ざかって、ただみずからの行為に没頭・集中するといった「持続的直観」のことである。もちろんこれをより単純に「詩」と呼んだってかまわない。深いようでいて浅く、真剣でありながらたわいない境地。そういった情操を日々探求し、根気よく突きつめてゆくのは釣りと同じように素晴らしいことだろう——と、4つの異なる時間に囲まれながら思う日曜日なのであった。




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