2019年4月6日土曜日

●土曜日の読書〔味と香りと恋しさと〕小津夜景




小津夜景







味と香りと恋しさと

つくったことのない料理がたくさんある。

たとえばホットケーキ。パンケーキならよく焼くのだが、いつも焼きながら「いいかげん、ホットケーキのレシピくらい調べないとなあ」と思いつつそのまんま。

この季節だと桜餅もつくったことがない。母もつくらなかったから、桜の葉の塩づけがなかったのかも。だって蓬餅はつくったもの。やわらかな蓬をその辺で摘み、さっと茹で、擂り鉢ですったものを餅とまぜて軽くつき、手ぎわよく餡を包みこむ。その青い味わいは今でもはっきりと思い出せる。

そもそも料理は嫌いじゃないのだ。食のエッセイだってよく読む。自分で料理しない人の文章も悪くはないが、やはり実践家だと話が早い。檀一雄の料理はどれも居酒屋である。北大路魯山人は食べることへの純粋な執着が愛らしい(あと彼の食器はごはんがおいしい)。立原正秋からは料理に限らず多大な影響を受けた。一番好きなのは『日本の庭』だ。あとこれも料理と一見無関係な話だが、この人は香りに強く、殊に不貞小説の潮の香りがすばらしい。それから青木正児。彼が袁枚の『随園食単』を訳したのは戦時中の飢餓に耐えかねたからなんだそうです。ごちそうの本を深く読みこみ、妄想の力によって空腹を克服しようとしたのだとか。

森下典子こいしいたべもの』(文春文庫)は著者が思い出の味の記憶を辿った本で、ふっくらとした風合いのイラストと日常の手ざわりとが心地よい。横浜駅で買う鳩サブレー、コロッケパンの自由、夜の缶詰、夜明けのペヤング、桃饅頭と娘たちの恋。

桜餅の話もある。桜の香りが好きな著者が、ソメイヨシノは香らないことを知り、はて、ならばわたしが知っているあの香りはなんなのだろうと不思議に思う。それが、もうすぐ五十歳になるかといったある日、市ヶ谷の桜の前でふたたびその香りを嗅ぎ、真剣に嗅覚の奥をつきすすんでゆくと、突然それがランドセルの皮の匂いであることを「思い出す」。そのあとのくだりがこれ。
 初めての授業が始まる一年生の四月、父は学校まで送ってくれた。手をひかれて校門の前までくると、
「ここからは一人で行けるね」
と、言われてうんと頷き、バイバイと手を振って門を入った。校門の横には桜が咲いていて、春のはじめの冷たい風が吹いていた。これから知らない人ばかりの世界に入って行く。その不安に心が揺れ、その一方で、新しい世界に胸がわくわくするのを覚えた。その後もしばらくの間、校門の桜の下を通ると、その感情が胸を占めた。
 それから小学校卒業までの六年間、ずっとランドセルと一緒だった。いつも革の匂いがしていた。乱暴に扱って傷だらけになったけれど、最後まで革の香りは変わらなかった。
 桜に吹く冷たい風が、遠い記憶の栞をひらく。そこに挟まっていたのは、六歳の揺れる心と、真新しいランドセルの匂い。
 その父も他界して今年で二十六年がたつ。酒好きだったが、甘いものにも目がない人だった。この季節になるとよく、
「桜餅、買ってきたぞ」
と、行きつけの和菓子屋の包みを差し出した。
えてして匂いとはこうしたもの。味と匂いは、見たり聞いたりするのと違い、つねに至近距離の体験であるがゆえに記憶の根も深いーーとすれば触覚も? ぬくもりも根が深いのだろうか。

うーん。すこぶる奇異としか言いようがないが、私の体験によると触覚の記憶はこの世でもっとも浅く、儚く、徹頭徹尾うたかたに属するもののようである。




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